見出し画像

九月十一日

夢の内容

 旅館にいた。いつかテニス部の合宿で訪れたことがあるような気がする、海のそばの古びた旅館だった。潮の香りがする。私は客室のひとつに居る。並べて敷かれた布団には年齢のさまざまな子どもたちが寝ている。「兄弟なんだ」と父親らしき人物が教えてくれた。男ばかりの八人兄弟だという。父親は疲れた顔をして本を読んでいる。
 客室内に置かれた懐かしいブラウン管のテレビはつけっぱなしになっていて、子ども向けのアニメ番組が流れていた。テレビの近くに行くと声がよく聞こえるが、少し離れると声が全く聞こえなくなる。私が音を聴こうと近づいて画面を眺めると、目がひりひりと傷んだ。「コンタクトに海の砂が入ったんだ」と思い、バッグから予備のコンタクトをガサゴソと探す。しばらく探していると父親に「うるさくすると子どもたちが起きるからやめて」と諭される。テレビ付けっぱなしの癖に何を言うのか。冴えない父親に対して若干ムッとしつつも、廊下に出てコンタクトを探す。
 目はひりひりと痛んだ。夢の中だというのに、リアルな痛覚が感じられた。一向にコンタクトは見つからない。あまりの痛みに私の目から涙がボロボロとこぼれ落ちて黒いバックに流れていく。「明日眼科に行かないと。きっと潰瘍になってるぞ」どこからか夫の声がして、ヒヤリとしながら私は目を覚ました。

自己解釈

 痛覚のある夢は珍しい。しかし、それも納得の話だ。昨日の私はコンタクトをつけたまま寝てしまっていた。コンタクトを外さなきゃ、外さなきゃ、と思いながら、睡魔に負けて寝てしまった。だから眠りはえらく浅くなり、こういう嫌な夢を見る羽目になった。飛び起きてすぐに洗面所に向かいコンタクトを外したが、目は痛くなく、充血もしていなかった。あのどうしようもない痛みが夢の中の出来事で済んだことに、心底ホッとした。
 夢で見た旅館は見覚えのない場所だったが、昔合宿で行った場所にかなり近い雰囲気だった。潮の香りまでリアルに再現されていた。懐かしさと、人と一緒に寝るということの緊張感があった。夢の中ではなぜか八人兄弟だったが、部活の合宿では先輩と一緒に寝た。その時も先輩より早く寝てはいけないとか、朝のグラウンド整備は後輩の役割だから早く起きなければならないとか、色々と気を遣った思い出がある。こういう部活とか、授業中とか、気を張っていた場所のことは今でもよく夢に見る。きっと失敗をしてはいけないという強迫観念だろう。
 夢の中でとても緊張して、目覚めた時にホッとする感じ。緊張と緩和。こういう体験は嫌いではない。しかし眠りが浅くなるのは困りものだ。今日一日はずっと欠伸をしながら過ごすことになるだろう。本当に痛い夢だった。「もうコンタクトをしたまま寝たりはしないぞ」と私は心に誓った。

お勧めの本

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講  / 泉谷 閑示

 「愛されてこなかったんだから、不足分だけ愛してもらえなければ、自分はこの苦しみから抜け出せない」と思い込んで待ちの姿勢でいる人がありますが、外からもらえなければどうにもならないというのが間違った考えなのです。しかも、このような場合に本人が「愛」として期待している内容とは、寸分違わずに自分を理解してもらい自分の希望通りに相手が応じてくれるイメージになっているものですが、それは明らかに肥大化した「欲望」というべき幻想です。
このような思い込みから覚めるために必要なのは、「愛」の自給自足を体現している存在に出会うことであり、そして自給自足を妨げている要素を丁寧に取り除く作業に着手することです。(P.173「愛の自給自足」より)

 ”「愛」の自給自足を体現している存在”、それはまさに太陽のような人だなと思う。本来誰の身体にも備わっているはずの「愛」を育てるための土壌に、愛を自ら産み出す人の、太陽のようなまぶしい光が注がれて「愛」が自給自足されるのかもしれない。身近で言う太陽は、この人、この人、と出てくるけど、自分はまだ太陽のような人間にはなれていない。まだまだ受け身だなと思っている。

 みんながみんな太陽のような人に出会えて、且ついずれは自分も誰かの太陽になれれば嬉しいなあ、と思いながら、今朝はこの章を読み返しました。泉谷先生は、何年経っても圧倒的信頼感を持って導いてくれる、私の自己カウンセリングの師匠です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?