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『みんなの日本語』派が手放したくないもの(1)

『みんなの日本語』を長く使っていると、裏テーマのようなものがたまってきます。47課はニュースの話、44課は身だしなみの話、42課は将来の夢など、取り上げられた文型を使って話せる話題を考え、試行錯誤しているうちに、学生がどんな話をしたがっているか、のってくるかがわかってきます。

そうすると、初めは「今日は〇〇の勉強をします」と始めていたかもしれない授業(私はこの始め方には反対ですが、もしそうだとしても)が、その話題をふり、みんなで話し始めると、その文型が必要になってくる、そして、そこで導入するという順番になってきます。(導入のあと何をするかは別の話、導入にならなくても、それはそれでよし、とか)

『みんなの日本語』を使い始める人が苦労するのは、この持ちネタがないから、何をどうやったらいいかわからない、ということではないかと思うのです。目の前の学生たちが「話したくなる・口を開きたくなる」話題は、出身、年齢、生活水準、教育水準などが違えば当然違うし、もとより個人差があるものです。それを予想するのはとても大変です。

『みんなの日本語』を使っている学校が、手放したくないものは培ってきたその「ネタ」なのではないかと思い始めました。

既製品では得られない「自分が関わる場に集まってくる学生」の傾向のデータがたまっている。それをみすみす手放してまで、教科書を変える必要があるか。

『みんなの日本語』は文型シラバスの教科書ですが、文法の本ではありません。また、今の「シラバス」という言葉には「何を学習するか」という意味が加わっているようですが、『みんなの日本語』ができた当時は「順番」ぐらいの意味しかなかったように思います。様々な言語活動を場面や機能、行動順でなく「主な文型順に並べました」というもので、文型習得こそ言語習得の道という思想の教科書ではないと思っています。

百歩譲ってそうだったとしても(というか、きっと作った方の中にはそういう人もいたと推測します)、この本を使用する過程で、言語知識だけが大事ではないという思想のもと、工夫しながら使って育てていく教科書になってきたと思っています。

だから「この本は文型シラバスの教科書です。この本では文法しか学べません」と紋切型に説明するのは「クリスマスはキリスト教のお祭りです。キリスト教徒ではないのにメリークリスマスというなんて、ふとどきせんばん」と言っているような気がします。

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