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塩1トンを味わうということについて

 僕の知っている限り、歩き旅という旅の仕方はあらゆる旅の中で一番ゆっくりと時間が進む。
車や電車に乗ってしまえば一瞬で過ぎ去っていく当たり障りのない景色たちや声を聞くこともない地元の人たちも、徒歩旅行者にしてみればじっくりと時間をかけて付き合っていく愛おしい景色で、いつまでも心に楔を打ち続ける時のかけらたちの一つだ。
そんな歩き旅の緩やかな時間のながれに魅了されて歩いているわけだが、歩き旅というものは不思議なもので、ただ歩いて旅して他の旅の仕方よりも少しゆっくりとその土地を味わったと言うだけで、何もかもを見聞きしたかのように錯覚させる部分がある。

日本という小さな国の東の果ては歩いてしか行けない

でも、実際はそんな簡単に物事を知ることなんてできない。

と思わせてくれる出来事があった。

その日はバケツをひっくり返したような雨が降り注いだ日で、それでも僕はハイになっていたので特に構う事なく歩き続けていた。
しばらくすると足の裏に痛みが出始めた。それは次第に強くなっていき、やがて歩くことが出来ないほど痛み出したので座り込んで小汚い靴下を剥ぎ取って足の裏を確認してみたら、皮が剥がれて血まみれになっていた。

そりゃ痛いわけだ。

応急処置をしてなんとか辿り着いた出店の気さくなおばちゃんに事情を話してみる。

「じゃあ軒下に泊まっていきな」

ご好意に甘えてその日の残りはのんびりそのおばちゃんとお話ししながら過ごさせてもらうことにした。
しばらくゆっくりしているとお客さんがふらりとやって来て、おばちゃんはそのお客さんとしばらく談笑した後、ふと震災の話を何気なく始めた。

「黒い濁流に自分の家が飲み込まれていくのをただ見ているしかなかった。
あのときはみんな辛かったから…。」

さっきまでニコニコしていたおばちゃんからこんな言葉が出てくるとは夢にも思ってなかった。
夢にも思ってなかったけど、おばちゃんが言うようにこの土地にいる人たちは多かれ少なかれみんな、僕に無知を悟らせるに足る何かを抱え込んで生きているのだろう。

この人の生活を感じさせる支流は"あの時"どんな凶暴な顔を見せたのだろう

多分歩きという方法で旅をしない限り、このおばちゃんのことは一生存在すら知らなかっただろう。
そのことは多分歩き旅が他の旅よりゆっくり時間が進むからに違いないと思う。
でもそれはおばちゃんの、もっと言えばその土地のほんのひとかけらを垣間見たにすぎない。

"ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、1トンの塩を一緒になめなければだめなのよ"
ー須賀敦子

塩は一回の食事で摂取できる量なんてたかが知れてる。1グラム1グラム、毎日の食事の中で刻むようにして積み上げられてやっと1トンに達する。

おばちゃんと会ったその日、僕はその人、その土地を本当に理解できるようになるまでの"ゆっくり"よりももっと遅い、"塩1トンを味わう"時間の過ごし方について思いを馳せた。

歩くことを躊躇う、時をやり過ごしてしまうことを躊躇うという、なんと贅沢なことだろう。

海の中へとゆっくり落ちていく夕日をじっくり眺める

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