1964 神戸でその2 音楽 フォークソング

 この頃聞いていたのはほとんど洋楽と言われているジャンルだった。テレビでは音楽番組も結構あって洋楽を日本語で歌う和製ポップスみたいなのが多かった、これはまた別の機会にでも。
 音楽を聞くのは45回転のシングル盤、お金がたまればLPレコード、あとはラジオ、関西ではラジオ関西の”電話リクエスト”、電波が悪かったけど、広島あたりから流れてくる米軍のFEN放送。よく流れてきたのはエルビス・プレスリー、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、クリフ・リチャード、パット・ブーンなどなど、これもまたできれば別の機会に思い出して、書けるかな。。
さて、当時爆発的に流行したのはフォークソングとロックなのだが、ここではまずはフォークソングから。中学生の時に向かいに住んでいた安田君ってのが無類のカントリー、ブルーグラス好きで、すでにギターを抱えてハンク・ウイリアムスとか、バック・オーエンス、ビル・モンローなんかを聞かせてくれていた。こっちは全くその良さもわかってなかったんだけどね、あまりの彼の熱心さに付き合っていた感じだ。そのうち、王子公園の東端にあったアメリカ文化センターで”アメリカ音楽研究会”とかなんとかの会合に連れていかれるようになった。そこにはマニアたちが大勢、といっても20人くらいだったか、集まっており、和やかな盛り上がりを見せていた。なぜか大塚兄弟、渡辺兄弟の二組がとてもええ感じで、気持ちよくブルーグラスを楽しませてくれた。とんでもなく大きな音のするバンジョー、マンドリンの薄いやつフラットマンドリンなんて楽器、バイオリンをフィドルと呼ぶもということも初めて知った。のちに元町で伝説の店となるロストシティを開いたバンジョーの名手野崎さんもおられたみたいだ。そこでさいさい出てくる話題が”グランド・オール・オープリー”という名前で、これはアメリカ・ナッシュビルで行われるカントリーミュージックのお祭りだった。多分当時はまだまだアメリカ音楽の中でカントリーというのは大きなシェアを占めていたのだろう。ま、キャリー・アンダーウッド、ディキシー・チックス、テイラー・スイフトなんかもカントリー出身だから、今でも根強いんだろうね。ちなみにアメリカに長く住んでいる長女夫妻もニューカントリーというジャンルしか聞かないらしい笑。
 で、その流れで出てきた名前がピート・シーガー。この人、もともと社会運動家なのだが、そっちを詳しく語り出すとととんでもないことになるので、ここでは見送り。要はフォークソングブームの生みの親ということで。この人が作った曲で、キングストントリオの花はどこへ行った、ピーター、ポウル&マリーの天使のハンマー、ジョーン・バエズの勝利を我らに(ウイ・シャル・オーバーカム)、バーズのターンターンターンなどなどめちゃくちゃたくさんのフォーク系ヒットソングを生み出した偉人なのだ。この人が加わったニューポートフォークフェスティバルで、キングストントリオやPPM、ボブ・ディランなど数多くのフォークシンガーが発表の機会を得てブームを引き起こす。そのことが現地では社会運動の一環としてのフォークソング、プロテストソングという位置付けを巡っていろいろ問題を引き起こしていたようだ。そんなこんなにはお構いなく、ただただ美しいメロディとして輸入された日本でのフォークソングブームが始まる。
 つらつら書いてきたものの、いや大変だね。詳細書かないと収まらないことになりそうだ。ままよ。
 日本ではキングストントリオ、ブラザースフォー、PPMなど、モダンフォークと呼ばれてあっという間に広がった。コピーするアマチュアバンドが山のように現れた。皆がギターを欲しがった。それに合わせてYAMAHAがマーティンに似せたフォークギターを新発売、瞬くうちに売れた売れた、と思う。僕でも買ったからね笑。
 東京では青山学院大とか成城大とかが中心だったのかな、モダンフォークカルテット、ブロードサイドフォーとかとか、MFQはラジオ番組まで持ってたね。さようなら、僕らの仲間ってテーマ曲を覚えている。東京はカレッジフォークとか呼ばれたお坊っちゃまお嬢ちゃまのの集い的な、結構派手だったね。
 肝心の神戸では、のちにポートジュビリーというタイトルになるフォーク&カントリーのコンサートが王子公園あたりの一角で催されたのが最初ではないか、と。甲南大軽音楽部のカントリーバンド・ブルーレンジャース、同じく甲南大PPMスタイルのタイニー・スパローズ、関学大キングストントリオスタイルのKGフォークトリオ(のちにカルテット)をなんとなく覚えているのだが、ここは記憶が怪しい、一度タイニーの菊池さんに尋ねてみなければ。大阪の様子はよく覚えてないけどシティジュビリーってタイトルだった。京都ではフォークキャンプとかの名称で円山公園が聖地、最初は室内だと思うので京都会館だろうか。同志社大の福原さん(すでにマーチンD45を引っさげておられた)のカントリーはハンサムで、フォーククルセダーズ(当時は4or5人組だったんじゃないか)、後にフォークルに参加するはしだのりひこのデュディ・ランブラーズ(このバンドは上手だった)、杉田二郎のジローズはいたかどうだか。それとは別にに高石ともや、岡林信康の宵々山コンサートってのもあったっけか。いずれも確かラジオ大阪の伊集院さん、京都放送の川村さんってアナウンサーが後押しでやってたような。
 神戸ポートジュビリーは旧居留地にあった農業会館ホールで定期開催だったか。タイニー・スパローズのPPMはほんとに完全コピー、譜面などない頃だから何度もなんども聞いて聞いてコピーしたんだろうねぇ。菊池さんのギターテク、日下さんのポール・ストゥキーまっ青の低音ボイス、日高さんの透明な声、まるでPPMがそこにいるかのようだったわ。笑える話、PPMのコンサートが大阪で会った時、双眼鏡で覗いてギターの弦が黒い!って、なんじゃあれ、と思ってたらイタリアのラベラってブランドもの、菊池さんがすでに使っていたのに二度びっくり。それと、そん時の会長さんって肩書きの島谷さんのポートジェントルメンてブルーグラスのバンドがあり、バンジョーのネックをすごく下に下げて独特のリズムで弾く島やんの演奏も際立っていた。モダンブルーグラスということだった。そうだわ、大阪に桃山大学のすごいフィドル奏者がいて、後の本場アメリカに移住して現地で活躍し続けておられたという猛者もいた。皆学生の分際でよくもまああれだけのコンサートを続けられてたもんだ、今さらながらに感心する。
長くなったので、一旦切るか。

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