1964 神戸で その1

 高校2年生。フォークソング、IVY、ロンドンポップ、そしてビートルズ。ついでに東京オリンピック。ちょうど修学旅行の専用夜行列車(当時は修学旅行用の夜行列車というのがあったのだ)、下関あたりで往路と復路の列車がすれ違う。どこの学校かもわからないが互いに車窓から首を出して、お前らどこからや、と声を交わす、そして東洋の魔女の金メダルを知る。宿泊先では箒やバケツを楽器に見立ててビートルズを熱唱するにわかバンドが喝采を浴び、とんでもない盛り上がり、日頃相当厳しかった風紀担当教師たちもさすがに放置、放し飼い状態。狂乱、といっても可愛いもんだが、寝付けない夜だったわ。
 さてと、神戸というのはその頃確かに洋風のハイカラな兄さん姉さんたち、その母親という独特な雰囲気を醸し出す不思議な街だったのだ。今から思えば。
 外国人が早くから町の形成に携わったという歴史を背景に、この時代に進駐軍、そしてその家族たちがいたことが大きな影響を与えている。通っていた高校の近くにはYWCAやアメリカ文化センターと行った施設やカナディアンアカデミーという外国人学校があった。50年代にはYWCAではひんぱんにバザーというのが開かれて、いらなくなった洋服や家具が無料もしくはそれに近い安値で手に入れることができた。進駐軍の家族が帰国する際にそれらのほとんどを放出というか捨て去って行くので、大量にアメリカンなものたちが手に入ったわけだ。母親たちはその機会を見逃さずそれらの争奪戦に加わり当時としては希少な物たちを手に入れてきていた。その頃取られた写真に写る子供達がやけにハイカラな服を身につけていたのはそのせいだったのだ。同時に貴重だったのは本、というか、シアーズローバックのカタログだ。B4サイズくらいで500ページというとんでもない分厚さのなかには服から家具、家電、ガーデニングまで、信じられないモダンな生活用具一式が宝のように掲載されていてまさにアメリカンドリームを絵に描いたようなものだった(実際まだ写真製版など稀有な時代だったからすべて線描きイラスト)。広いアメリカ国土ゆえにカタログ通販が当然のことだったのだろうが、当時の日本人からするとそこに掲載されている物量やモダンな生活スタイルには目を丸くするしかなかった。女子たちにはアメリカの17誌、フランスの19誌に心揺るがせられたに違いない。そこに登場する服たちを見て、彼女たちは母親にそれらを作ってくれるように嘆願したに違いない。ほとんどの母親は洋裁に長けていたから、娘の要望から心に火をつけられて一生懸命作っただろう。生地はYWCAで手に入れたものか、あった服をリメイクし直したかもしれない。そんなこんな環境で育ってきた若者たちが気取ったアメリカンな雰囲気を身につけたのも自然といえば自然、神戸ならではのことだ。甲南、関学、海星、女学院、松陰といった大学生がまぶしかった。兄さんたちはコットンパンツや細身のウールパンツに、ストライプやタッターソウルのボタンダウンシャツ、七三にわけたクールカットの髪、かっこよかった。なかにはすでに長髪の人もいたがまだ少し遠慮がちな感じにも見えた。一方の姉さんのスタイルは裾の広がったスカートにブラウス、肩にカーディガンを羽織って本をブックバインダーで縛ってかかえている姿がかっこよかった。車は淡いブルーのフォルクスワーゲン。YWCAや北野町の外国人倶楽部、芦屋の滴水美術館などで、ダンスパーティが開かれていた。とにかく早く大学生になりたかった。

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