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【往復書簡】5通目(シモダさん)

 シモダさま

 先日、近所(自転車で7分!)の砂浜へ家族で出かけて、たっぷり遊んできました。こどもの外遊びは不要不急ではないと思ってのことですが、なかなか大人の方も心身ともにリラックスできて、良い時間でした。何かにつけて周りの目が気になってしまう情勢ですが、どんな些細なことでも、自分にはこれが必要なのだ、と自信を持って行動したいですし、そのためにはやはりリスクと対策について正しく理解する必要があり、情報収集は大事なんだな、と思います。

 アフターコロナは全く新しい時代になる、と叫ばれています。といっても人間がごっそり入れ替わる訳ではないので、気づけば変わっていたという感覚なのだろうなあと思っているのですが。いまこのコロナ期間を、「元の生活を取り戻すまでの我慢期間」と捉えるのか、「次の価値観を迎えるための準備期間」と捉えるのかで結果がだいぶ変わってきそうだなあとぼんやり考えています。

 その意味で、例えば「お店の代替」がオンラインで可能だとしたら、それはそれでいいような気もするんですよね。誤解のないように言っておくと、「ひつじがってオンラインで代替可能じゃね?」と言いたいわけではなく、もしひつじががまわりに与えるものが等しく代替できるとしたら、それはやっていいと思うんです。もちろん、全く同じというのはあり得ないのでこれは思考実験でしかありませんが。でも何かやってみることで、ここは代替不可能だとか、ここはできるしむしろこっちの方がよくね?とかの、価値の捉え直しができるというのは、この時代だからこそできる良いことなのかな、とも思います。

 と言っておいてなんですが、あの不特定多数のアドリブに替わる刺激というのはなかなか思いつきませんね。最近会社で(というか僕が勝手にやってるだけですが)家で仕事をしてる間はずっとDiscordのボイスチャットに入っておく、というのを始めました。zoomやmeetなどと違って、誰かがホストにならなくても常にそこに部屋がある、というのはなかなか良いのでは?と思っています。

 さて「自分」の範囲を広げる動機の話ですが、一つの答えとしては、やはり(個体としての)自分の命を守るためというのがあるのではないかと思います。人間は身体的には弱い動物なので、生存戦略として社会性を獲得したという話がありますが、それです。仲間がいると生存率が上がるのです。何かを守るために手を広げるのではなく、自分を守るために手を広げるのです。

 熊谷晋一郎さんが「自立とは、依存先を増やすこと」と語っています。人は無意識にたくさんのものに依存している状態を「自立している」と感じるのだと。彼がそれに気づいたきっかけもとても示唆に富んでいるので、もし未読であればぜひ読んでみてください。ネットですぐに見つかります。

 自分として痛みを感じるというのは、言い換えるとそれに依存している状態ということなのかもしれませんね。

 何もかもを理想論でなくバランスやトレードオフで語らざるを得ない昨今ですが、実はこれまでも理想論なんて存在せず、さまざまなトレードオフが透明化していただけなのかもしれないとも感じます。自立していたつもりが、実は日常は色々なものに依存しながら存在していたことのだということに気づかされているのかもしれません。

 また彼はあわせて「希望とは、絶望を分かち合うこと」とも語っています。何年も前の言葉ですが、この日々や近い未来の捉え方をひとつ示してくれているような気がします。

2020.4.27

岩谷成晃

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