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【往復書簡】3通目(シモダさん)

シモダさま

 すんごい間が空いてしまいました。

 暖かい日が多くなってきましたね。といっても油断するとすぐ風邪を引いてしまうので、身と気を引き締めて過ごしましょう。まあ、風邪ならばまだ良いのかもしれませんがね……。さてさて。

本題に入る前に少し日々の雑感を。

 日々変わる情勢、いや実際には日々変わっているのは情報とそれへの印象であって、情勢は想定された可能性の中を進んでいるのだと思いますが、ともかく、日々自分の姿勢というかスタンスを考え続けなければならないのだなあというプレッシャーを感じつつ生きています。

 最近再自覚したのですが、僕は自分が好きでないことについて判断するのが苦手で、昨今のウィルス感染拡大への対応はまさにそれにあたります。好きなことだけ考えて生きていたいので、好きでもないことに頭を割くのはなかなか自覚的にならないと難しい。

 とはいえこれは実際に生き死にの問題なので、生き物としては積極的に考えて当たり前(でなければ死ぬ)の課題であるわけです。人間が獲得した知性の一つの形としてこの指向があるとしたら、それは欠陥なのではないか、種の危機において適切に死に向かう特性個体が一定数用意されているのではないか、もしや自分がそれなのではないか!!みたいな厨二病に侵されつつ、まあ普通に情報を集めて対処を考え、実践しているので僕は選ばれしものではなかったようです。この日々を軽やかに楽しめる視座が欲しいな、と毎秒思っています。

 おもむろに本題に入っていきますが、「軽やかに楽しめる」というのは言い換えると「責任が軽い」ということだと思うのです。「外化」「信頼」「期待」「無責任」あたりは近い概念だと思います。「飄々と」を追加しても良いかもしれません。

 と、ここで追加して考えたいのは、「投げた責任はそのまま相手にのしかかるか」ということです。これについて僕の答えはNoです。責任の重さは人によって異なります。たぶん、投げた責任を軽やかに楽しんでくれるという認識のことを、「信頼」やシモダさんのいう「お節介」と呼ぶのでしょう。

 と、前置きした上で、ご質問に移ります。

僕は普段お店にいるので、まだその特性上(不特定の方が隣り合って同じ時間を過ごすので)お節介を厭わない方々(する側もされる側も)と接する機会がそこそこあります。大変ありがたいことなのですが、一歩お店の外に出たらどうなのでしょうか。岩谷さんの周りでそういう第三者に対するお節介を見ることはありますか?

 妻に話してみたところ、真っ先に「子育て」を挙げられました。なるほどその通り。子育ての現場では日々こどもに何かしらの小さからぬ影響を与えているわけですが、それが子の人生にどのような影響を及ぼすのか、そのひとつひとつに責任なんてとても負えません。「いま」「自分は」これが正しいと思う、という無責任なお節介をせざるを得ないところがあります。

 それと先日風の強い日に、唐揚げ屋ののぼりが倒れているのを見つけた通行人が、信号待ちの間にそれを元どおりに立てているのを見かけました。

 それと、ちょうど今日(この部分を書いた時点での今日なのでもうだいぶ前な気がします)公園で、こどもが遊んでいる遊具近くでボール当て鬼ごっこ(?)をしている少年たちに「こどもが遊んでるんだからボール投げはあっちの方で遊んでくれんか。そのくらいもう言われんでも自分でわかる年やろうが。」とたんたんと叱る子連れの若いお父さんをみました。

 ちなみに余談ですが、同じ遊具で子と遊んでいた身として、そのお父さんに「言いにくいことを言ってもらってありがとうございました」とお礼を言わなかったことを少し後悔しています。これでは僕もあの少年たちと同じではないか、と。他人の優しさに甘えてただ乗りしてるだけですよね。

 さて、シモダさんも書かれているように、やさしさがあればどんな行動でもみんなハッピーかというと、この若いお父さんの例のようにそうでもないわけですが、どう受け止められるかわからない以上、やはりある程度そこに関しては無責任にならざるを得ないというところには同意します。

 しかし、それをクリアする動機が必ずしも「信頼」や「期待」であるかというと、そうでもないぞという気がしています。というか、そんなものただの自己弁護でしかなくて、実は全て自分勝手な無責任である、ということもできそうです。みんな、自分がそうしたいからそうしてるだけで、それを自分や他人に説明するためにいろいろ理由を後付けしとるんちゃうんかい、と。詳しくないんですがアドラー心理学がそう言ってます(かね?)

 たぶんこれはどちらかが本当であるみたいな話ではなくて、もう一つの真実であるということで良いんだと思いますが、ある行動がお節介なのか迷惑なのかという迷いに対してはひとつの答えになるかな、とは思います。

 聞かれてもないのに僕の責任「観」についてお話しますと、僕は「自分が痛みを感じる範囲の責任を取れば良い」と考えています。この範囲を改めて「自分」と呼んだりします。それは個体としての自分かもしれないし、家族や友人を含むかもしれないし、自分の中でも趣味に関する事項だけかもしれないのですが、とにかく「自分が守りたいものを自分で守れ」という主張です。その外に関しては徹底的に無責任/無関心です。もっとも、まわりまわって自分に返ってくるものがほとんどなので、実際に無関心でいられるかというとそういう場面は多くはないのですが。

 コミュニティづくりや場づくりという話に関連づけると、メンバーが他のメンバーやそのコミュニティそのものを「自分」であると捉えていると、良い場が作られるのかもなあとぼんやり考えました。そして書いていて思いましたが、自分にとっての会社(annolab)はまさにこういう場だなあ、と。

と、長くなってきたのでこの辺で。あえて質問を投げずに閉じてみます。

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