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【往復書簡】1通目(シモダさん)

シモダさま

 早いもので最後にお店を訪れてからはや1日半が経ちました。いかがお過ごしでしょうか。こちらは引越しの荷物に埋もれながら、間に合わせでレンタルしたモバイルWi-Fiルーターでなんとか呼吸を確保しています。

 ということで、先日お話した通り、行けないことはないけどちょっと遠いな……という距離の場所へ引越ししました。職場は引き続き近くなので、またたまに寄ることがあろうかと思います。

 さて、引越しの話の流れでありがたくも「書簡やろうぜ!」と声をかけていただきまして、ふたつ返事で快諾したは良いものの、いざ書こうとすると気負ってしまってだめですね。万人に受ける話はなんだ、とか、一番面白い話はなんだ、とか、着地点を想定しよう、とか。考えてしまうとなかなか書き出せません。最初の一歩はなんであれ難しいもんですね。

 それならそれで「そらシモダさんから始めちゃらんね」とでも言えば楽になったのでしょうが、なんだかそれは不当な楽である気がして、飲み込んでしまいました。

 なぜ1通目がこんなにも難しいのかというと、やはり選択肢が無限にあるから、ということに尽きるかと思います。自由に書いて良い、というのは全責任を負うということであるから、それなりに重荷なのでしょう。

 と、さらりと書きましたが、ここで最初の話題を提供しようと思います。なぜ「自由に書いて良い」ことが「全責任を負う」ことに繋がるのでしょうか。よく「自由と責任は表裏一体」とか言われますが、なぜなのでしょうか。

 僕が思うに、「自由と責任は表裏一体か?」という問いへの答えは常にYesで良くて、むしろ目を向けるべきは自由に対する責任が帰属する先です。「お酒を飲みすぎて頭が痛い」のは個人の責任かもしれませんが、「その状態で試合に出て負けた」のは不調を見抜けなかった監督やチームの責任とも言えますし、「優勝できなかったので経済的にその後の人生で選手を続けることができない」は政府や自治体の責任かもしれません。

 この責任は認識次第でいくらでも内化したり外化したりできるのですが、このバランスを取るのが上手い人は幸せそうに見えます。主観ですが。ちなみに全てを個人の責任で語ろうとするのが、行きすぎた自己責任論ですね。

 シモダさんは意識して責任を内化や外化していることはありますか?僕はこの文章を通して、この話が行きつく先についての責任を外化しました。

あしからず

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