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「パンはパンでも」なぞなぞに隠された音楽的事実

なぞなぞの具体例を1つ挙げろと言われたら、皆さんなら何を挙げるでしょうか。私ならこのなぞなぞを挙げます。

「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ?」

このなぞなぞは世代を通して擦られまくっている、伝説のなぞなぞです。人生でこの文言に一度も出会わないというのは至難の業でしょう。

では、なぜこのなぞなぞがここまで流行したのでしょうか。「フライパン」という答えには正直面白みが感じられませんし、そもそも問題として成立しているかも怪しいです。パンダだのジーパンだの次々と別解を挙げられてしまいます。

しかしこのなぞなぞは子どもたちのハートをキャッチし続けてきました。なぜか。

その理由は、このなぞなぞが持つ音楽性にあるのです。

このなぞなぞは変拍子です。
最初は三拍子で始まります。「パンは」と実際に口に出してもらえば分かる通り、一拍目が強く、二三拍目は弱くなります。

二小節目。ここでも「パン」が登場し、一小節目と同じことの繰り返しであると聴衆に期待させます。しかし実際は違います。「でも」と逆接の言葉が入り、予想された拍数よりも一拍多くなります。(ここの「も」の部分を八分の一拍子と捉える意見もあります。)
ここでの裏切りから楽曲は急展開を迎えます。

三小節目。「食べられない」のフレーズ。ここを八分の六拍子でなく敢えて四分の三拍子と捉えたのは、三拍子の波動を感じざるを得ないからです。意味的にも、そして押韻的にもこのフレーズは「食べら/れない」ではなく、「食べ/られ/ない」と分けるべきです。

薄々気づいている方もいるでしょうが、こちらをご覧ください。

この曲は小節の頭で必ず「a」の韻を踏んでいます
そうした「a」のビートが刻まれる中、三小節目でこの3連続「a」の踏み方。あまりにも急展開です。パンの麦の香りが感じられるようなムードが「食べられない」という言葉で一変、暗雲が立ち込めて落雷で地面が震えるような感覚を覚えます。我々の常識が覆される瞬間です。

そして四小節目。
ここでなんと一小節目で提示された主題が再現されるのです。ソナタ形式における再現部の役割を果たしています。また小麦の香りが漂ってきます。この部分があることで、いっそう曲が格調高く感じられます。

最後の五・六小節目。「なーんだ」という部分ですが、ここは人によって歌い方が異なります。楽譜では一応リタルダントをつけていますが、インテンポ気味に歌う人もいれば、「なー」で充分に溜める人もいます。
しかし共通しているのは「んだ」の部分で元のテンポに戻り、軽やかに曲を締めくくるところです。「んだー」と伸ばすことはありません。「なー」で伸ばしても「んだ」で綺麗に着地するのです。優雅です。

いかがだったでしょうか。
主題が提示され、裏切り、ビートが変わる激動の展開、そこからの再現部、そして大団円の終結部。名曲という他ありません。

この名曲の答えが「フライパン」?
そんなわけはありません。
今なら答えられます。

「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ?」


ショパン。


以上です。ありがとうございました。

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