編集者同士は、なぜ相性が悪いのか。


「編集者と仕事をするときは、ライターに徹することにしました。編集の仕事はしません」

最近会った後輩の編集者が、そんなことを言いました。理由を聞くと、「編集者同士はみんなそれぞれ主義やスタイルが違っていて、上手くいかないと思うんです」と。だから編集者視点を捨てて、ライターに徹すると。

近親憎悪でしょうか。

餃子の王将や大塚家具にあるように肉親でも争いは起きますからね。

シーア派とスンニ派は同じイスラム教徒なのに憎しみ合っています。

うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どちらを選ぶ?

よく究極の選択のたとえとして「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どちらを選ぶ?」というのがありますが、あなたならどちらを選びますか?

さすがにカレー味でも、うんこはバイ菌がいっぱいで健康被害の恐れがあるので、うんこ味のカレーを選ぶ人が多いかもしれません。しかし、これがもう少し厳密に「うんこにあるバイ菌がすべて含まれたうんこ味のカレーと、カレー味のうんこ」だとしたら、かなり迷いませんか? 健康被害という観点ではまったく同じですからね。

編集者同士のいがみ合いも、これに近いのだと思います。

つまり明確な「正解」がない場合が非常に多いのです。コンテンツの質の良し悪しは、あるレベル以上になると多種多様です。スポンサーによっても変わりますし、メディアによっても変わります。もちろん同じ会社、同じメディアでも「正解」をめぐっての争いは起こり得ます。

文章の良し悪しは、100人いれば100通り

たとえば以下のような表記があった場合、あなたはどちらを選びますか?

「思うんです」と「思うのです」

「知ってます」と「知っています」

「思うんです」は常体表現、「思うのです」は敬体表現。厳密に言えば、常体表現なら「思うんだが」、敬体表現なら「思うのです」が正しいでしょう。

しかし、インタビュー記事などでは、よりインタビュイーが話している雰囲気に近づけたいと考えた場合、「思うんです」とすることもあるでしょう。

「知ってます」と「知っています」は、正しくは「知っています」ですが、これもインタビュー記事などでは、なるべく口語のくだけた感じを出したければ「知ってます」とすることもあるでしょう。

タイトルの付け方、小見出しの付け方、構成の組み方、表記の仕方など、100人いれば100通りです。

だから私は自分がライターのときは、100%編集者の指示に従います。どうしても納得できないときは名前をペンネームにしてもらうことはあります。それでもあえて自分の主張を通すことはしません。

なぜなら「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ」について戦っても、あまり意味がないからです。

メディアは編集者と、その先にいる読者のもの

あるメディアの仕事をするとき、そのメディアの記事の書き方が自身のこれまでの経験ではNGだったとします。

たとえば、私はWebメディアでは、前置きは可能な限り、ないほうが良いと考えています。雑誌のようなリード文や連載の場合の企画説明などは、基本的に冒頭に必要ないという考えです。Webメディアの多くの読者は、起承転結という論文的展開を順を追って読むほど我慢強くもないし、時間をかけて読んでくれることもあまりありません。だからこそ、長文になればなるほど、結論を冒頭に持っていきたいと考えています。

しかし、Webメディアでも毎回“時候の挨拶のような前置き”を入れたがる編集者もいます。この“時候の挨拶”に毎回400字くらい使う編集者もいます。

私は「冒頭からこんなかったるい文章が400字も続いたら読者は脱落するなあ」と思うものの、それが編集者の考える方針であり、メディアのスタイルであれば、そういう「文学的な前置きが好きな読者がターゲット」という解釈をします。一ライターとしては、メディアの方針に従って、できるだけ興味を引くように努めて書きます。

ライターと編集者が、主張(領域)争いをしても意味がない(ただし議論はすべき)

いままで自分でも気づかなかったのですが、私は「したがって」という言葉を使ったことがありません。

ある記事を書いたとき、「だから」という言葉を使ったら、編集者が「だから」→「したがって」に訂正してきて、初めて気づいたのです。そしてなぜ自分はいままで「したがって」という言葉を使ったことがないのか自問自答しました。それまであまり意識したことはなかったのですが、「したがって」という言葉には、学術論文的な固い印象があります。それが私の書く文章のトンマナに合わないのです。だからいつも「だから」や「なので」という言葉を使っていたことに気づいたのです。

英語で言うと「したがって」は、「therefore」、「だから」は「so」というイメージです。「したがって」を使うと全体のトンマナが狂ってしまうので、違和感はあったのですが、編集者はメディア全体を視野に入れて文章を整えます。なので、私は一応自分がなぜこのような表現を使うか説明はして議論をすることはあります。しかし、そこで編集者が納得しないときに、こういう細かい表現について頑なに主張し続けることはしません。

先日「三流編集者は、なぜ赤入れが多いのか?」でも書きましたが、「指示なし、返事なし、意見なし」の三流編集者でない限り、主張(領域)争いをしても意味がないのです。それを始めてしまうと、日韓の慰安婦問題みたいに永遠に平行線を辿って感情のしこりだけが残ってしまいます。

一人ディベートをしてみよう

米国では学生時代から、自分の主張と関係なく、与えられたお題で、どうやって説得力のある説明ができるかトレーニングをするそうです。いわゆる“ディベート”です。

編集者は、「うんこ味のカレー」と「カレー味のうんこ」のどちらを選ぶべきかーーこの両方のそれぞれの立場で自ら“ディベート”をして、読者を説得する視点を持つことが大切だと考えています。

あなたがもしコンテンツ制作において、納得ができないことがあったら、ぜひ一度「うんこ味のカレー」と「カレー味のうんこ」のどちらを選ぶべきか、両者の立場で考えてみてください。

コンテンツの良し悪しは、二者択一ではなく、ときにして二者択二のこともあるのです。


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