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横着者


小学校の六年生ころからだった。朝夕に牛の餌やりを受け持つようになっていた。別に誰に命じられたわけでもない。学校の休みに牛を使って農業の手伝いをしたのが、そのまま登校日にも続いたのだと思う。
 私が学校から帰ると祖父が「牛が騒ぐので、おまえの帰るのがわかる」と言う。私の姿が見えるはずのない遠くから感じて、牛が小屋の中をうろついたり、鳴いたりするのだという。
 父は自慢することが好きな人で、親戚中にそれを自慢したらしい。
従兄弟達に会うと「『竹場(私の生家のある集落の地名)の子は毎朝牛に餌をくれてから学校へ行くそうだぞ。おまえはなんだ』とやられて、閉口したものだ」と、会えばいまだにぼやかれる。
 牛はよく飼い主に懐く。大きな体で犬や猫のように飼い主にすり寄る。
鼻面をなでてやると、頭を高く上げて、喉をなでろと催促する。猫のようにゴロゴロは言わないが、大きな目を細めて「うぅーんもう」と甘ったれて低い声で鳴く。
 角をつかまれるのが嫌いで、こんなに慣れている私でも角をつかむと振り払おうとする。
 首を振っても手を離さないでいると、角を地面すれすれに下げて、私を掬い上げるように突っかけて来る。私は引っかからない。素早く退いて、牛が角を高く上げたときには、角にぶら下がる。
 嫌がって牛が退くと、私はそれより早く押し込んでいく。四本も足があるのに、不器用な牛は尻餅を搗きそうに足が縺れる。
 牛という奴は本当に不器用だ。太い首を左右に振って私の手を振り放そうとするので、牛が首を振る方に私が力を加えると、体全体がよろよろする。もっと大きく振り回すと大きな四つ足を縺れさせてよろよろする。
 大切な働き手に怪我をさせない加減にからかって、放してやると、恨めしそうに離れて草を食む。小柄な私が働くときの相棒であり、ペットでもあった。
 馬では私には扱いきれなかっただろう。
 この牛を「横着者」と私が名付けた。仕事に連れ出すときには、その場で足踏みをするように遅いのに「帰るぞ」と声をかけると、とっとと歩き出す。あまり早いので追いかけると、走り出す。
 家畜の分際であまり調子がいいので「横着者」と名付けたのであった。
 ある朝父が「今日牛を出すから、小糠やふすま(小麦の皮、牛の好物)をたくさんくれてやれ」と言った。
老いて動作の遅くなった牛を、若いのに取り替えるのである。
学校から帰ると母が待ちかねたように「博労が二人で牽いても押しても動かないので、無理やり連れて行こうとしたら、こんな大きな涙を流しただよ」と、泣きながら訴えた。
 博労に売り渡された牛は、そのまま屠殺場へ連れて行かれるのである。牛も涙を流すが、売り渡す飼い主も泣かずにはいられない。
「牛は売られるとき、ラッキョウのような涙を流す」と経験者は言う。
こんなに馴れた牛でも数年使えば博労に売って若い牛に買い替える。かわいがって、老いて死ぬまで飼ってやる、などと言う事は出来ない。出来るわけがない。犬や猫と餌の量が違う。
 元々家畜は働かせて、老いれば殺して食うのである。自分で殺して解体するわけではないが、他人に依頼して屠殺しても同じことである。
 動物でも植物でも命あるものを食べないで、人は生きることはできない。
日本語で「たべもの」とは賜るものと言う意味だと聞いたことがある。神様から賜ったものを感謝していただこう。
 ここまでは、昔書いたブログの控えからコピペした文章である。何時書いたものか分からなくなった。20年くらい前に書いたものだと思う。

耕運機を使うようになって牛を売り払ったのは、私が高校へ通うようになってからだった。高校を卒業して2年、本気で農業に従事した。その間に父の事業も手伝ったが手伝ってみて、山の中の小さな村で事業をすることの難しさだけが、身に染みて分かった。
 機械に代わってから、有機肥料が足りなくなった。営農が企業として成り立つためには、企画段階から考え直さなければならないと思って、父親に相談しても、全く取り合ってくれなかった。「俺の言うとおりにしろ」というわけだ。
 農協に入る米や野菜の売り上げは父が管理していたし、唯一家計費に使える鶏卵の売り上げは祖母が管理していた。
 祖父から家の主導権を奪った父のように、力ずくの喧嘩で父を従わせるしか、自分のしたい営農は出来ない。喧嘩か、諦めか。他に方法がなかった。
誰もが私を支持してくれるようになるまで忍従して、その先が全然見通せないまま2年目の年が明けた。
 2歳年少の妹が高校を卒業して、長野の善光寺前に開店したばかりのデパートに就職が決まった。
「もう一度大学を目指せ。このままでは嫁ももらえない」と言い渡された。
妹の給料まで当てにして何とかなるという、いつも通りの父の勝手な胸算用だった。未だその下に妹が3人、弟が一人高校から小学校までずらりといるのに、無理なことは分かり切っていた。
 妹はその下の妹たちと弟に、着るもの履くもの全てを買い与えた。
 横着者は要らなくなったのだ。私もなんて僻みは言わない。
 それで私は〇〇大学の法学部を受験した。その後のことはたくさん書いたから……。
                     2020年11月19日


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