祝われたくないと思ってしまう心の考察
私は自分の誕生日が祝われることに居心地の悪さを感じるところがあるな、と気づきました。「おめでとう」と言われても、素直に相手の好意を受け取れず、居心地の悪い気持ちになります。
そのことに気づいたのは、あるLINEグループであるメンバーが誕生日を祝われていた時でした。
そのメンバーが祝われた時、他のメンバーの誕生日も祝おうという流れになり、それぞれの誕生日を伝える空気になったのですが、私は誕生日を祝われたくないなと思ってしまいました。
誕生日を祝われるのに居心地の悪さを感じるようになったのには明確に原因があって、その出来事は二つあります。
一つ目は水戸光圀の逸話を知った時です。
水戸黄門で知られる水戸藩2代目当主の水戸光圀は、自分の誕生日の時に粗末な食事をしたそうです。その理由は自分が生まれた日は母が腹を痛めた日であり、その苦しみに感謝するため、あえて自分の食事を質素にしたとのことでした。
もう一つは前職に勤めていた時、ある東南アジア(国名は忘れました)からの留学生たちの付き添いをした時のことです。
前職で留学生たちを何日間か受け入れる時があり、人手が足りなかったので半日付き添いをしたことがありました。
私が付き添いをした日、留学生の内の一人が誕生日だったようでした。そしてその誕生日の子は「誕生日だから友達にプレゼントするんだ」と言っていました。
私はその言葉に驚きました。日本では誕生日の日は誕生日になった人が祝われてプレゼントをもらうのが一般的ですが、その子は誕生日は自分が親しい人にプレゼントをする日だ、というのです。
これがその国の一般的な風習なのか、その子の住んでいる地域の風習なのか分かりませんが、とても良いなぁと思いました。
時系列的にはこの二つの出来事は別々に起きたことですが、私はこの二つの出来事で自分が誕生日の日に当たり前のように祝われ、プレゼントされることを期待していることに気づきました。そして、そう期待している自分が汚らしく感じるようになりました。欲深く、貪るような自分が想起されたのです。
それ以来、自分が誕生日を祝われるのが苦手になりました。
誕生日を祝われることで、自分の欲深い心が刺激され、それが自分に露わになってしまい自己嫌悪の心が生じるので嫌になったのです。
また書きながら気づきましたが、私の心に根深く潜む「謙遜という名の拒絶」も影響していると思います。自分自身が褒められることを拒絶する、自分自身を傷つけようとする心です。
もう一つ書いていて気づきましたが、「褒められてるのを謙遜してる俺カッコいい」という心もあるなぁと気づきました。
誕生日の例で言うと、普通なら祝われて喜ぶところを意味ありげに「祝われたくない」と断るという仕草でカッコつけてるところがあるなぁということです。「なんで祝われたくないの?」と問われれば前述の水戸光圀や留学生の話をする準備もちゃっかりしています。「ただ祝われたくないだけでなくてこんなちゃんとした理由があるんだぜ」オーラを漂わせながら喜々として(表向きは淡々と)語る気がします。というか過去に語った気がします。恥ずかちい。
祝われることを期待する浅ましい自分を嫌悪する心と、「祝われたくないというポーズ」を取ることでカッコつけようとする心と、その二つの葛藤で居心地の悪い気分になっているようですね。
というわけで私が誕生日を祝われたくない、と思っていることについての考察が一応言語化できました。
言語化してみたら「祝われたくない」という気持ちは特に深刻なものではなかったです。「祝われる」ということは問題ではなく、それに伴う自分の欲望に対する嫌悪感や、それに対して奇を衒った対応をしてカッコつけようとする心が問題であることが分かりました。それを踏まえて改めて考えるに、別に誕生日祝われてもいいですね。日本では祝う文化が普通なんだから祝われればいいじゃん。
水戸光圀と違って私は「母の産んだ苦しみを思うと祝ってもらうのは申し訳ない…」という殊勝な気持ちもないし、留学生の子のように「祝ってもらうよりむしろ私がみんなに感謝する日だよ!」みたいなアグレッシブな気持ちもないので、これからは素直に祝われようと思いました。
LINEグループで誕生日の件返信しようか。時間経ちすぎてて気まずいな。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!