見出し画像

否定や抑圧とは異なる形の向き合い方

 最近自分の不得意とする能力を求められる場面が多くあり、そのたびに自分の不得意分野が意識されます。そして不得意分野を意識するたびに、逆に自分の得意分野について否定的な心的態度を取ってしまっていたな、と気づいた時がありました。

 私が不得意とする能力は、端的に言うと、理屈ではなく感覚で感じ取る能力です。

 
 その能力が求められる場面の一つは環境改善活動で作業を行う場面です。
 私は野土ぬづちで環境改善活動を行っています。私たちが取り組んでいる環境改善技法は大地の再生という技法です。大地の再生では「五感で捉える」ということが重要とされます。
 私は物事を理屈で捉える傾向が強く、大地の再生の技法で要求される感覚を細かに感じ取る力が弱いです。そのため、作業の中で他のメンバーより勘所を掴むのに時間がかかったり、的を外しがちです。
 最近はそれでも経験を積んだおかげか、少しずつそれも改善してきていますが、やはりまだまだうまく行かない場面が多いです。

 他のメンバーから、理屈で物事を捉える私の傾向について指摘があり、もっと感覚で捉えられるようにと色々な勉強素材をもらいます。私なりにそれらを消化しようとしていますが、やはり自分と違う性質のものなので四苦八苦しています。

 もう一つの場面としては、自己探求の領域において、私は身体という軸を一つの柱にしていますが、身体という方面についても理屈で捉えがちな私の傾向が苦手とする領域です。身体の感覚を深く感じ取り、それを自分の身体の実際の状態と照らし合わせるというのは理屈ではなく感覚を感じ取る能力が必要になります。
 そしてその能力の低さは、日々の自らの身体感覚と実際の身体の状態のずれから突き付けられます。


 このように今自分が注力している領域において、感覚を感じ取るという能力を必要とされることが多くなりました。そして苦手である「感覚を感じ取る」という能力を鍛えようと意識したことで、感覚を感じ取る時に邪魔になってしまう「理屈で考える」という私の傾向を無意識に敵視するようになってしまいました。「理屈っぽい私の傾向は駄目だ、もっと感覚に目を向けないと」みたいな感じですね。

 かつてスカトー寺で修行した際の気づきで、私の内にある暴力性を抑圧、否定していた、というものがありました。自分の暴力性を抑圧、否定することで自分自身の苦しみを増していたことに気づけました。
 しかし最近の私も、理屈っぽい私の傾向を抑圧、否定していることに気づいたのです。自分の内にある傾向性を否定することが苦しみにつながることは、スカトー寺での気づきで理解しています。なので、今回は抑圧、否定するのではなく別の方向性で活かせないか、と思うようになりました。


 例えば、このnoteのように私は自分の思考を言語化することは得意です。そのため、私は言葉で物事を説明するのは他の人よりは得意であると思います。
 であるならば、私たち野土ぬづちの活動について文章で説明することは、他のメンバーより上手くできるかもしれません。

 また、報告書の作成など事務的な仕事に関しても他のメンバーよりは(少しく)上手くできる自信があります。これは必ずしも理屈っぽいところが影響しているわけでは無いかもしれませんが、感覚で物事を感じ取ることが得意な方は、事務的な作業が苦手な方も多いので、多少は私が役に立てる部分かと思います。

 今思い浮かんだのは上記二つですが、このように私の自然な傾向性(理屈っぽいところ)も役に立てるところはあるなと思います。
 「感覚で感じ取る」という苦手な分野を鍛えることは諦めたくないですが、そのために自分が得意としているところを否定してしまっては元も子もありません。
 なんとか自分の傾向性を否定しない形での成長を探っていきたいです。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!