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「余計なことをやめる」という成長

 人の進歩、成長というような文脈を語るとき、「自分に無いものを身に付ける」という方向性のものと「自分についてしまっている余計なものを無くしていく」という2つの方向性があると思います。

 前者の例は本を読んで知識を身に付けるとか、練習して仕事の技術を身に付けるといったものです。
 後者の例は挙げるのが難しいのですが、速く球を投げようとして一所懸命力を込めて投げても速く投げられなかったのが、身体のりきみ(例えば膝の力み)を抜くことで力が球に直接通るようになり、結果として速く球を投げられるようになった、というような事例でしょうか。これは実際に似たような体験をしていないとイメージしづらいとは思いますが…。

 そして私はこの例でいう後者の方向性のものに惹かれるところがあります。

 実際に最近の作業で体験したことですが、目一杯力を込めるより、りきみを抜いた方が結果として大きな力が出せたことがありました。
 川辺の草刈り作業の時、刈った草をフォークを使ってトン袋に入れる作業があったのですが、直前まで雨が降っていたため、草は雨の水分を吸って非常に重くなっていました。それを最初は腰に力を入れて持ち上げいたのですが、しばらくやっていたら腰が痛くなってきて、このまま続けたら腰を壊すな、と気づいた私はやり方を変えようとしました。
 かつて甲野善紀先生の講習会に出たとき、「動滑車の原理」というものの解説で「腰を沈めつつ腕を上げる」というような説明がありました(うろ覚えなので間違っているかも)。その解説が頭に残っていた私は、フォークで草を持ち上げる時、腰を沈めるようにしました。すると、腰に力が入っている感覚はないけど、草を持ち上げることができました。結果腰への負担が減り、腰に痛みが来ないような持ち上げ方ができました。
 客観的に自分の身体を見ているわけでないので、自分の感覚としての「腰が沈む感じ」というのが実際に腰が下に移動しているのかは分からないのですが、そうすることで腰に力感をあまり感じずに作業ができました。私の感覚としては「腰の力を抜いて」作業をしている感覚でした。
 これは「力を使う作業は力を込めないといけない」という一般的なやり方と異なり、上記で言う「自分についてしまっている余計なもの(癖)を無くしていく」という方向性での身体の使い方だと思いました。

 身体操作においては「自分についてしまっている余計なものを無くしていく」という方向性のメソッドは幾つかあります。
 以下のシステマの動画でも説明されていますが、システマは「余計な緊張を無くしていく」というのが一つの大事な方向性としてあります。

 また、以下のスペースにおいて綱川さんという方が話されているのですが、結跏趺坐で長時間座って痛くなっていた時に御自身の身体を見たところ、無理なことをしているところがあったので、それを一つずつ止めていくことで楽に座れるようになった、と仰っていました。

 他にも野口整体で身体の調子を整えるための「活元運動」は自分の意志で動かすものではなく、錐体外路系すいたいがいろけいという反射や無意識的な動きを引き出して行うものなので、その時は自分の意識的な動作や緊張をやめる必要があります。

 これらの運動法や身体操法の考え方の根底には「人の身体は本来理に適った動きをするようにできているので、人の作為をやめて身体の自然な動きに任せれば最適な動きが導かれる」という思想があると思います。
 私個人としては、甲野先生の講習会をはじめ、そうした身体観を基にした身体ワークショップに何度も参加したり、上記のように自分の実体験としてそうした思想を裏付けるような体験をしているので、そうした身体観を自然に受け入れています。そして私自身が動きの質を向上させていこうとする方向性としても、「余計なことをやめる」という方向性で進んでいます。


 ところで、私はこの「余計なことをやめる」という方向性は、心の成長においても応用できるのではないかと思っています。

 例えば仏教も初期においてはまさに「余計なことをやめる」という方向性で実践が進みます。瞑想実践は自分の心に生じるもの(思考や感情など)をしっかり受け止め見つめることで自分の思い込みや偏見に気づき、それらを取り払っていくことで段々と物事のありのままの姿を見ることができるようになる、という形で進んでいきます。「自分の思い込みや偏見」が「余計なこと」に当たるでしょう。それらを手放し、止めることでより深く、より明晰に心に生じるものを見ることができるようになります。

 また、老荘思想においては赤子の無垢な心を人の目指すべき境地として上げています。これも人が成長していく上で身に付けた知識や見解といったものを「余計なこと」として取り払っていく思想と言えるでしょう。

 心の成長という領域において、この「余計なことを止める」という視点は非常に有益なものだと思うのですが、私自身がまだその方向性を突き詰められておらず、適切な例示がこれ以上できないため、今回の記事での言及ここまでにします。自分の探求が深まったらまた言語化したいと思います。


 現代はとかく知識や技術などを「いかに多く身に付けたか」ということが評価されがちですが、身体においても心においても、ただ「余計なことをやめる」という方向性を進むことで、より本人が納得できる生き方に近づけることがある、ということはあると思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!