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土や石や水を「いのち」と捉える感覚

 先日の松葉舎しょうようしゃの授業において、言葉の固有性とでも言うべき興味深い話題がありました。
 ある言葉を誰かが発するとき、言葉自体は珍しいものでは無いのに「その人っぽさ」を感じる、それは何に起因するのか。ある塾生の方はそれを「その人の体験に起因するんじゃないか」と話されました。「体験」と言っても、「イベントに参加してみました」というような体験というより、その人の人生を方向付けるほどの強度を持った「体験」です。そうした体験がその人にある言葉を発せさせ、それが「その人っぽさ」を感じさせるのではないか、というのです。

 その話を聞いていて、私の中で納得できる事柄が一つありました。
 私が関わっている環境改善の活動で、主に参照されるのは大地の再生という技法ですが、その大地の再生に関わる方々がたびたび口にする「いのち」という言葉があります。
 「いのち=命」というと、現代日本においては一般的に動植物を指すと思いますが、大地の再生に関わる方々は土や水や石といった、一般的には無生物に属する存在物に対しても「いのち」と呼んでいることがあります。
 私も一般的な使い方と同じで「いのち」という言葉で土や水や石を表すことは無かったので、なぜそれら無生物を含めて「いのち」と呼ぶのか分からなかったのですが、言葉の固有性の話題において「体験が言葉のその人っぽさを裏付けるのではないか」という言及から連想して、ある仮説が私に浮かびました。
 
 私が何かを「いのち」だと感じる時は、対象物に対して働きかけたときに対象物が反応を返す、という経験があるからです。
 動物であれば、虫のような小さいものでも、こちらが触れたりすればそれに対して逃げたり攻撃したりして反応を返します。
 植物であっても水を与えれば大きく育ったり、あるいは水が過剰で腐ったりするなど、こちらの働きかけに顕著な反応を返します。
 しかし、石や土や水においては、そうした反応がありません。正確には全く反応が無いわけでなく、水が腐って濁ったり、石が乾いて割れたりといった変化はあるのですが、それらを私は「生き物の反応」として認識できないため、石や水を無生物だと捉えています。

 それに対して、大地の再生においては、環境改善を行う時に土や水や石が非常に重要になります。
 空気と水の通り道を確保するため、主に水脈(溝)を掘るのですが、その水脈が詰まらないように適切に枝葉や石や土を組み込みます。枝葉のような有機材はもちろん必要なのですが、土や石といった無機物も構造を保つために必要になります。
 私はまだそこまで経験が無いのですが、有機材や無機物(土・石)を組み込んだ水脈が機能し、環境を改善する働きを目の当りにしたら、土や石に対しても「反応を返してくれるいのち」であると認識していくのではないかと想像しました。つまり、私が動植物に対して働きかけて反応を受けるという体験を繰り返してそれらに「いのち」という認識が生まれるように、土や石や水を大地の再生の環境改善の手法で組み込み、それらが確かに環境改善に有効に働いてくれる、という体験を繰り返すことで、土や石や水に対しても「反応を返してくれるいのち」という認識が生じるのではないか、と思ったのです。
 大地の再生に関わる方々はそうした体験を繰り返しすることで、徐々に石や土や水に対しても「いのち」と自然と呼ぶような感覚が養われているのではないだろうか、という仮説が思い浮かんだのでした。

 この仮説を授業の時に話した際、塾長の江本さんから言葉というのはその意味内容より、「その言葉を発する人」と「その言葉自体」と「その言葉で表される対象」の三者の関係性がその言葉らしさを決める、という話がありました。
 例えば、「親父」と「パパ」は「男の親」という同じ意味内容を示す言葉ですが、その言葉を発する者の関係性は異なるでしょう。つまり、ある人が自分の父親を「親父」と呼ぶことで表される父子の関係と、「パパ」と呼ぶことで表される父子の関係は異なります。それは、「親父」と「パパ」という言葉の意味内容が違うというよりは、それらを使い、使われる人同士の関係性が異なることを意味します。
 それと同じように、土や石や水に対して「いのち」と呼びかける発話者の態度自体が、土や石や水を「無生物」と捉える現代科学とは違う関係性を生じさせ、異なる関係性による体験がよりそれらに対して「いのち」という認識を深めるのではないか、というのが江本さんの指摘でした。

 私はその指摘から「八百万の神」という思想に連想が及びました。
 かつての日本人は山や川にも神が宿り、それどころか食器や厠にも神が宿るという世界観で生きていました。それらは現代科学においては「無生物」ではありますが、かつての日本人にとってはそれらは生活の中で「かみさま」と表現せざるを得ない実感を感じて生きていたものだったのだと思います。
 それは、現代では無生物とされるそれらを「かみさま」と呼ぶという態度自体が、つまりそれらを「かみさま」と認めること自体が、ますますそれらから「かみさま」という実感を立ち現せる、という機微もそこにはあったのではないかと思いました。

 現代科学においてはおそらく「生命」についての定義はある程度あり、それに則れば山や川や食器などは「生命」ではないのでしょうが、かつての日本人のようにそれらにも「かみさま(=いのち)」を認め、そう認めることでより実感としてそれらに「かみさま」を感じられる生き方、世界観の方が私はより惹かれます。そして、そういう生き方を私自身がしたいと思いました。
 ただ、そうは言っても無暗にそれらを「いのち」と捉えようとしても、概念的になってしまい、思い込みと区別がつかなくなる恐れもあります。
 その点、大地の再生という技法及び視点は、実際の作業において土や石や水に対する「いのち」という感覚を養うことができます。
 そのため、大地の再生をとっかかりとして、それらを「いのち」と捉える感覚を養うのは有効であるように思えました。

 「無生物をいのちとして捉えるために大地の再生に関わる」というのは何だか不純というか、目的がブレている感じがしますが、まあそれは大地の再生に関わる目的のメインではないので、気にせず作業を続けていこうと思います。そして作業をしていたら自然と土や石などをいのちと捉える感覚は養われると思いますので、今回の気付きは気付きとして、これからも環境改善の活動は取り組んでいこうと思いました。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!