日常を生きる
できることが限られている以上、よりよい世界のために、こんなことをしましょう、なんてことを、私は言えない。
それができる人がいることは知っている。
明確な意志を持ち、なすために運命でも操っているのではないかと思えるほどに突き進んでは、実現する。
そんな人がいることは、知っている。
けれど、私にそんな大層なことはできないし、魔女修行に持てるものとしたら、日々を精一杯生きる、ということだけであろう。
しいていえば、それは未来のためにできることにもつながっていると、私は信じている。
私たちが立っているこの日常が、日常であるから立っていられるのであって、異常事態になってしまえば、満足にいられはしないであろう。
私が初めてこれを思ったのは、東日本大震災のときだ。
あのとき、私ができることは何か、と考えたときに、同じことを思ったのだ。
非日常を生きていたところで、それまでの日常の上に立つことはできないし、積み重ねることもできない。できることはただ、日常を生きていくこと。いつも通りの日々を送ること。
そうした当たり前の日常の中をーーいや、本来、こうして日常を過ごせることは、当たり前ではないのかもしれない。そんな、奇跡的なもの、日常という、祝福すべきもの、の中で、生きている。
日常はそんな、特別な当たり前、である以上、それを積み重ねることは未来のための土台を作ることでもある。
日常、平常、それを積み重ね、土台となし、特別ではある、当たり前となる、そうした日々の過ごしが作れる。それ以上に、未来に残す必要のあるものはあるのかしら。
発展や進歩、というのは大変立派なことではあるけれど、それを支えるものは当たり前な日々で、それが土台となっているからこそ、輝くものだ。
輝かなくてもいい、知られなくてもいい。けれど、大切なこと。
未来、なんて、そんな先のことはわからないけれど。
日々を過ごすこと、日常を生きること、それらを積み重ねること、土台がある、ということ。
それを想い、それを願い、生きていく。
それが、私のできる、精一杯なのだと、思う。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。