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『レッド・デッド・リデンプション 2』をクリアしたあと、僕はシチューを作り始めた

ぶつ切りの巨大な牛スネ肉に焦げ目をつけて、みじん切りしたタマネギを飴色に炒めて、大きめに切ったニンジンとジャガイモ、それから赤ワインとビールに缶のトマトソースを鍋にぶち込んで塩と砂糖とコンソメを合わせて5時間煮込むとどうなるか?

『レッド・デッド・リデンプション 2』をプレイした記憶が蘇る。

僕が操るアーサーは、キャンプで目を覚ますと焚き火に近づき、火に煽られる深底の鍋を覗き込む。毎朝欠かさず、仲間が作ってくれるシチューだ。食べようとしても昼にならないと完成しないという警告が出るが、要するにシチューはそれだけ煮込まないといけないということに違いない。

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そのシチューにはおそらく、僕が狩ってきたシカやイノシシ、バッファローの肉が使われているはず。スープの色からすると、ベースはトマト。詳しい作り方は分からないが、ともかく、アーサーの昼食はシチューと決まっていた。

どうしてシチューを食べ続けられるのか?

長らく積んでいた『Red Dead Redemption 2』の本編をようやくクリアした。1900年頃、西部開拓時代末期のアメリカを舞台とする本作では、法と資本による新しい時代に適応できなかった無法者のアーサーの生き様が描かれる。

ストーリー中盤までアーサーは強盗や殺人を繰り返してきたが、ある出来事からこれまでの罪を償う手段を探し始める。道中、シスター・カルデロンに慈善活動を勧められるシーンには重みがある。みずからを悪党と自覚し善人にはなれないと嘆きながらも、これまでの行為への罪悪感と対峙するアーサーに、シスターはこう言う──「まずは行動よ…心は後からついて来る」。

このシーンは僕のお気に入りの1つだが、しかし、それより強く印象に残ったのは、拠点の野営キャンプで作られるシチューだった。昼になるとできあがるシチューは、一口食べると能力値が向上する。それでシチューはお役御免なのだが、不思議なことにアーサーがシチューを口にしたあと、シチューを食べ続けるか捨てるかをプレイヤーが選ばないといけないのだ。

ゲームの攻略を進めるなら、さっさとシチューの残りを捨ててミッションに向かうべきだ。でも、そうしない選択肢があるのには何か理由がある。シチューを完食する選択肢は、たぶん作り手からのメッセージだ。こんな無駄に思えるところまで作り込んだんだ、と。本作をプレイしているとめんどくさい操作が数えきれないくらいあって、「いちいち」という言葉を何度も使いたくなる。でも、そのめんどくささや無駄こそが本作にリアリティをもたらしている。だから、僕は序盤から終盤まで幾度となく登場するこのシチューが本作の象徴だと感じる。

捨てても何も支障がないシチューを、僕は毎回完食した。正直皿を捨ててアラブの白馬に飛び乗りたいときもあったが、それでもシチューを食べるという行為/操作に抗えない。シチュー自体が死ぬほどおいしそうだし、アーサーもまた豪快によそってうまそうに食べるんだこれが。未プレイの人も、アーサーがスープ1滴まで飲む干す姿だけでも見てほしいと思う。

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うっとうしいくらいと感じるまでに作り込まれているからこそ、本作はプレイヤーによる無駄な行為も受け入れてくれる。例えば、マシーナリーとも子さんはしばらく釣りをして過ごしたらしい。僕がシチューを完食し続けたように、こういう遊び方をしうるのが本作の醍醐味だろう。

"雪山があるじゃない。デカい湖がある……。あそこにテント張ってさ。ゲーム内時間で10日くらいひたすらそこで魚釣って焼いて食って寝るって生活してたんだよ。"

自分でシチューを作り始める

僕があえてシチューに最大の魅力を見出すのは、僕自身がビーフシチューを好きというのが理由だと言わざるをえない。

僕の母はよくクリームシチューを作ってくれた。それに比べて、茶色いシチューの頻度はとても少なかった。そして率直に言うと、シチューとしてはおいしくなかった。お店で食べるビーフシチューと色は同じなのに、まったく違う味がしたのだ。どうしてなのかはいまだに知らないが、ハヤシライスと似たような味がしていたので、たぶんハッシュドビーフのルウを使って作っていたのかもしれない。

僕が好きなのはお店のビーフシチューだった。でも、めったに食べられるものでもない。母のビーフシチューはいまいち(ビーフシチューだけね!)。

僕はそんな経験から、実際はそうではないのに、ビーフシチューを作るのは難しいと思い込んでいた。さらに、料理に料理酒以外のお酒を使うのはなかなかにハードルが高く、イメージもつきにくかった。ビーフシチューは、僕にとってめんどくささの塊だったのだ。そんな経験が相まって、本作のシチューに惹かれてしまったのだろう。

さすがの僕も、お店のビーフシチューは赤ワインとビールを使って煮込むというわずかな知識は持っていた。本作にはいろんなお酒が登場するので、間違いなくシチューにも使われていたはずだ。しかも、肉は自分が狩ってきた動物のもの。そんな想像が込み入ると、本作のシチューが途方もなくおいしそうに見えてくる。

僕はどうしても我慢できなくなっていた。弱っていくアーサーがあんなにもおいしそうに食べていたシチューを自分で作ってみたいと思った。だから、僕は本編をクリアしたあと、シチューを作り始めたのだ。初めて料理のために赤ワインも買った。

王道の牛スネ肉にも挑戦した。ほろほろになるまで煮込んだ。

人類と長い付き合いのある煮込み料理

ウィキペディアによるとシチューが料理として確立したのは16世紀後半から17世紀前半のフランスにおいてだという。

だが当然、煮込み料理自体には長い歴史がある。人類が火を手にし、骨器か土器を利用するようになった頃からお世話になっている料理のはずだ。煮込み料理は食材の栄養素をすべてスープの中に閉じ込めて食せるという特筆すべきメリットがある。あらゆる栄養が貴重だった原始の時代、煮込み料理が人類のお腹をたらふくに満たしていたことは想像に難くない(ビタミンCはフルーツで)。

このことは、僕は『ワンピース』のサンジから学んだ。同作初期のシーンや台詞はあまり覚えていないが、本当にこの言葉だけは鮮明だ。

"シチューはいいんだぜ。食料の栄養分を無駄なく摂取できる"

『レッド・デッド・リデンプション 2』のシチューは厨房で作られるものではなく、むしろ原始の時代のものに近い。先ほどスクリーンショットでお見せしたように、焚き火に吊るした鍋に肉と野菜と調味料を一緒くたにして煮込む調理法だ。

こんな簡単な料理が舌を震わせるのだから、原始の人類もきっと朝に作り始めて昼にできあがる煮込み料理を楽しみにしていたに違いない。そして食べ残すこともなく、次の狩りに臨んでいたのではないだろうか。

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※ちなみに日露戦争の頃(1904年頃)に日本で作られていたビーフシチューは↓のような感じだったそうだ。本作と近い年代だが全然違う料理。

"ビーフシチューは、今のようなデミグラスソースは使用せず、小麦粉をバターで炒めるだけのブラウンソースがベース。トマトソースも赤ワインも入れませんので、あっさりした牛肉のスープという感じでしたね。学生は味見をしながら、「先生、ここに醤油と砂糖を入れたいですね」と言っていました(笑)。"
食卓の近代史――料理書から見る日本の食文化」より

受け手が気づかない細部にこだわるほど、その作品のリアリティが高まると言われる。作品の本筋から見れば「なくてもいい」無駄に思える部分にとことんこだわれることは、その作品にどれだけリソースを注ぎ込めたか/注ぎ込んでしまったかに直結しているからだ。そして、作り手がどれほどそこに注力しようとしたのかも見えてくる。受け手としては、そういう細部を楽しめる感覚を養っておきたいものだ。

ゲームをプレイしたあと、心持ちや意識が変容したり、テーマについて考えさせられたりすることはままある。何か行動に反映されることもあるだろう。他人の行動を変える、新しい行動をさせることは、僕が最も難しいと考えることの1つで、それゆえに価値あることだと思う。だからこそ、いままでシチューを作ったことのなかった人にシチューを作らせた『レッド・デッド・リデンプション 2』はいいゲームだった。


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