「おめんとか」今橋愛(一歌談欒 Vol.1)

 .原井さん(Twitter:@Ebisu_PaPa58)主催の「一歌談欒」という企画が始まりました。課題の一首を読んでそれについて思ったことを各自好き勝手に文章にする、そしてそれらを持ち寄ってみんなでわいわい語り合おうというもので、とても楽しく有意義なものになりそうな予感がします。
 僕は歌集などを数えるほどしか読んでおらず、歌人自身のことについても全くと言っていいほど知りません。せっかくなのでこの企画においてはこのまま敢えて余計な知識を仕入れずに、課題の一首だけに向き合って読んでみようと思います。

 さて、今回の課題短歌はこの一首。

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること

今橋愛『O脚の膝』

「おめん」をつけて匿名性を獲得しようとする。外に出るときの防御装備としてなにかをつけるって、とてもよくわかります。化粧とか整髪剤とか眼鏡とか部屋着ではないまともな服とか、最近だとマスクだってそういう装備のひとつですよね。うん、わかるわかる。部屋の外には他人が存在していて、その眼に晒されるわけで、丸腰ではやっていられないと。
 自分と社会との間に物理的ななにかを挟んで距離を取るという感覚、特に若い頃ってそういう自意識が強く働きますよね。

 いやでもちょっと待てよ、日焼け止め? 日焼け止めって塗った本人は確かにそれを実感できるし、皮膚の表面に薄い層が形成されて、それが紫外線を防いでくれるというちゃんとした機能まで発揮するけれど、対人防御装置としてはまったく役に立たないですよね。だって日焼け止めを塗っているかどうかなんて、はたから見てもわからないんだから。しかも日焼け止めってつける時期も時間も限定されるものだし。防御力低すぎるでしょう。
 つまり、「具体的には」と挙げられているものの、匿名性をもたらす装置として「おめん」が100点だとすれば「日焼け止め」はほぼ0点。ああ、でも主体にとってはそれでいいんですよね。自分だけにわかるバリアが張れていれば十分なんです。自意識について自覚的だと言えます。そのことが「具体的には日焼け止め」と提示されることで強調されています。

 下句の「へやをでること」=「なにかつけること」という断定と、それが八八のもたつくリズムで置かれていることも自意識に輪をかけているようです。
 また三行からなる分かち書きにおいて、漢字が使われている具体的な例示である一行を、内面を表すようなすべてひらがなに開かれた行で挟んでいるところにも、自意識の立ち上がりとそれを客観している視点の併存を感じました。


わかってる
だれもみていやしないこと
ゆーぶいとびかうの わかってる

那須ジョン

「蝉時雨」みたいな言葉を発明するまで続けるよ。