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映画感想:『JOKER』で語られた「善悪は主観でしかない」という真実と、浄土真宗の歎異抄「悪人正機」とのシンクロ

はじめにと、私事

自分の記事の続きである。
一晩経ってもJOKERを見た興奮が冷め止まぬ。
だからまぁ、これはどちらかというと自分自身の悟りだ。ああ創作がしたい。だからこそ書きまとめておかねばならない。

私事であるが、この映画を見て以来猛烈に動揺している。
私は物語書きであり、物語には主人公がいて、善が悪なるものを倒すという勧善懲悪こそが受ける物語であって王道ではあろうと思っている。
しかし、この『JOKER』を見てからその価値観が激変した。

善悪について、私は真剣に考えたことがあっただろうか。それは不十分なものであり、薄っぺらいものでしかなかったのではないかと。

とまぁ色々考えて書いてるのがこの文章である。まとまりがなかったり思いつきで書いてたりするのはご愛嬌。前置きはここらへんにしておこう。

善悪は主観でしかない。

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ジョーカーとなった彼が終盤で人々に向かっていうこのセリフこそ、まさに真理だと思う。
誰かにとっての悲劇が誰かにとっては人生を盛り上げる喜劇になるし、最高に笑える喜劇は最悪の悲劇でしかないことだってある。

そしてその善悪を定めるものは誰だっていない。それはつまり誰でも定めていいものだし、逆に定義できないからこそ誰にも守ることができない。
誰かが「これが真実だ!!」と思い込んでやった行為や信念が真逆の嘘偽りであった時、それを阻止していた人たちはどうなるのか。
真実だと思い込んでる人にとっては悪であるが、俯瞰的に見れば善の存在である。

世界とは混沌である、その真理を最も端的に啓示した恐ろしい言葉であると思っている。

いや確かな正義や明らかな悪があるはずだって? うん、私もそう思っていたし、本編のエピソードでそこを解釈していこうか。

善悪と社会性の脆さ

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終盤でジョーカーが刑事2名に追われて電車に逃げ込む場面は覚えているだろうか。
あの中では殆どの人がピエロの仮面を被り、素顔なのはむしろ刑事二人だけであるという特異な空間になっていた。

そしてジョーカーは2人の追っ手を阻むために行ったのは「通りすがりのピエロの仮面を奪う」である。
奪われた人は怒り出してジョーカーを弾き飛ばすが、それにぶつかった別の人がまた怒り出して「仮面のない男」に殴りかかる。
火がついたように暴力は広がり出し電車は騒然となり、そこにたどり着いた刑事は暴力を止めようとして銃を取り出してしまい暴発、眼の前の相手を射殺してしまう。

つまりこの電車の中での社会で「仮面を被った被害者たち」こそが善であり「素顔の加害者」こそが悪と変貌するわけだ。
社会の中で異物が出たら人間はどうする? 善性のままにリンチ、私刑を行うわけだ。そのとおりにピエロたちは刑事たちに襲いかかる。停車した駅で引きずり降ろされ、無数のピエロたちに暴行を受けて刑事たちは重傷を負う。

そんなピエロたちを尻目に、ジョーカーは足取りも軽くその場を去るわけだ。
「狭い社会性の具現」であるピエロの仮面をゴミ箱に捨てながらね。

ジョーカーの危機を救ったのは、まさに「限定的に構築された社会の秩序」そのものだったのである。
それを操ることができるのが、ジョーカーの恐ろしさであり、それは誰にだってできてしまうことである。

無敵の人はなぜ恐ろしい?

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ジョーカーの恐ろしさとは、人が固辞し続ける仮面のような社会性を、あっさりと捨ててしまえることにある。道具として使い捨てられるルールの埒外にいるのだ。

誰にも「その社会は間違っている」とは言えないし、いろんな作用でそれは大きく変動し崩壊し構築されるものである。たとえば宗教であったり、たとえば規範であったり、たとえば価値観であったり、たとえば経済による資産の有無であったり。そういったもので構築され、時には破壊される。

普段の我々が規範や法則を守ろうとするのは「そうしたほうが合理的であり、利益を守ることができるから」に他ならない

『なぜ人を殺してはならないの?』という問に対するシンプルな答えは『自分が殺される危険性が高まるから』であるわけだ。

じゃあ『自分が殺されても全く構わない』『あいつを殺した責任を自分の命が殺されることで果たす』『自分には失う利益がないからやる』と言った場合にどうするか? 

どうしようもないのである。
合理的な理論は利益の喪失により、その道理を完膚なきまでに失われる。

貧しい者や守るべきものを持ってない者、社会保障を受けられず社会と交われず孤独である者、そういった人たちがいわゆる「無敵の人」と呼ばれており、昨今においては頻繁に耳にする存在となってしまった。
だからこそ彼らにとっての守るべきものや生き甲斐を与える福祉や社会保障は社会秩序保全のための合理的手段とも言いかえられるが、現実の福祉や社会保障はその役割を十二分に果たしているとは到底言い難い未熟なものだ。

消費税増税とか逆進性の税金で社会保障しようって、貧乏人の10倍の金を持つ金持ちが貧乏人の10倍の量や価格の飯を胃袋に毎度納めるわけでもないし、本来社会保障で支えるはずの層に負担を強いるだけじゃないか……という愚痴は少し話がそれるのでやめておこう。

そんなわけで社会規範を崩壊させうる、非合理であることに躊躇いのない人たち「無敵の人」は荒唐無稽な存在ではなく、現実として存在を許されてしまうことになった。

そこで一つ前のセンテンスで上げたピエロの電車を思い出してほしい。社会規範とは時には人数の多さや状況で簡単に覆ってしまうものだ。

我々が常日頃感じている「正しい、善」という感情は、単純に「そう思っている人の人数が多く、かつ社会規範として成立しているからそれを善しとしてるだけ」でしかないのでは?

社会とは、そんな薄皮一枚で守られたようなあまりに脆いものであることの危険性を、実は我々の大半が知らず存ぜずで過ごしているという。なんて怖いんだろうね! その証明となり得るからこそ無敵の人が、恐ろしいのである。

誰にも正しさに責任を持つことなどできない

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そもそも何をもって正しいと物事を決めるのか。「彼」が追い続けていたコメディを例に考えてみようか。

世の中の創作やクリエイティブに「あの人にとって面白いと思った作品は、私にとっては面白くはなかった」ということがある。
その逆の「私にとっては最高に面白かった作品があの人にとっては最悪の代物だった」ということも、起こりうる。ちょっと極端な例ではあるかもしれないがね。

『JOKER』の作中においても「彼」は人には笑えないようなジョークを作り続けていた。ボロボロのネタ帳に書かれているのは普通の人にはちょっとセンスを逸脱してるように感じられる内容だ。つまり「面白くない」わけだ。

何を面白いか面白くないか決めるのは、まさに主観の為せる技ではなかろうか?

おいおいそれを言い出したら何も良い悪いを決められないじゃないか、という話になるが全くそのとおりだ。そこは後でも合わせて述べるとしよう。

主観という曖昧なもので曖昧なまま全てを定めようとするし、そのままで行動しようとする者だっている。
ジョーカーになる前の「彼」だって「自分のコメディは面白い」「母親の言うことが正しいから、自分は社会の成功者トーマス・ウェインの隠し子である」という根拠のない曖昧な主観を元に行動をしたのである。そして一世一代のコメディショーに出たり直談判したりして、容赦なく真実とご対面させられるわけだ。

ジョーカーこそが「主観なんて曖昧なもので善悪を決めるのは間違っている」という真実に全身で直面させられた男であるのだ。

そして全ての真実を知った時に彼は悟りを得るのである。
多くの人は正しさに責任を持たないまま、己の主観だけで決めて行動してしまっている」のだと。
彼自身、尊敬していたコメディアン、フランクリン・マレーに自身を嘲笑の標的にされた時点でそれを理解したのであろう。人とは無自覚に他人の大事な心の拠り所を攻撃し、破壊する。

そうやって心の拠り所を破壊させられたものが、反撃しないと考えるのはあまりにも浅慮であろう。
だからこそ彼はジョーカーになったし、ゴッサムの民衆もその怒りを爆発させたのである。

人生とは他者を含めて全てが冗談、ジョークみたいなものである。

浄土真宗の「悪人正機」

予め言っておくが私は仏教の研究家でないしクリスチャンでもないしどっちかと言えば無宗教だ。誤りがあるかもしれないが、これは一つの主観として留めていてほしい。

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親鸞の興した浄土真宗の歎異抄の第三条にこういう言葉がある。

「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」

ざっくり言うなら「善人であっても救われるのだから、悪人が救われないはずがないでしょう」だ。世間一般で言うなら「悪人だって救われるのだから、善人が救われないはずがないでしょう」とは全く逆のこの言葉、私にとってはやはり真理に通ずるものだと思っている。

留意すべきは、ここでいう悪人とはジョーカーみたいな犯罪者とか悪いことした人というよりも「悪いことをして、因果応報によりその報いを受けて苦しみ悩み続ける人」のことを指している。
それに対する善人とは「本当の自分をわからず、自分を善だと自惚れている人」になる。

悪人正機、つまり悪人を正客とする考え方で「自身を善だと自惚れている人よりも、苦しみ悩んでいる人こそが阿弥陀仏に心の底から救いを求める」本願他力を説いた言葉であるわけだ。

阿弥陀仏から見れば全ての人は悪人なのである
これはまさに「善悪は主観でしかない」の現れではなかろうか、と思う。

前のセンテンスで「全てが主観でしかないとしたら、誰にも何にも良い悪いなんて言えなくなっちゃうじゃないか」という突っ込みをしたがまさにそのとおりであり、阿弥陀仏やイエス・キリストからしてみれば人間は全て悩み苦しみ救われるべき人であったり、原罪を背負っている。

それなのに世間一般で人々は平然と「自分はいい人だ、善人だ」と信じてやまない。自身の主観に基づいて物事を見ているからだ。自身の行動がどこかで他者を傷つけているとは考えない。

なんて高慢であろうか!

そこには人間が持つべき優しさや労りといった美しいものがない。しかし当人は「自分は優しさや労りのある善人である」と心の中から思っているのだ。

なんという皮肉、冗談、ジョークであろうか。

混沌は誰に対しても平等(フェア)だ。

上のタイトルは「JOKER」本編じゃなくて「ダークナイト」からの引用だが、ここでもしっかり当てはまる。

上であげたような人は実際善人かもしれないし悪事は働いてないかもしれない。トーマス・ウェインは非の打ち所がない善人であったわけだしね。
そういう者に対して等しく訪れるのが不幸であり、恐怖であり、混沌だ。
ティッシュペーパーよりも薄いかもしれない、社会規範という守護によって普段は守られているが、それを容易く破壊する人は社会より生まれ出づるし、一度破壊されてしまえば修復は非常に困難だ。

今作でのジョーカーは、元はどこにでもいる貧しく孤独な男であった。
彼自身の脳障害による「笑いが止まらない発作」という特異性がもたらした社会との不和が致命的なエラーを引き起こしたわけだが、そもそもその脳障害も母親からの虐待が原因であると示唆されている。

母親自身は精神疾患を患っており、意図的に「息子を悪の華にしよう」と思って虐待をしたわけでも何でもない。しかし作中ではそのような結果をもたらしたわけだし、悪を生み出す原因になった彼女に死という報いを与えたのは、他ならない「ジョーカー」である。


悪を生み出そうとして悪を成すのではなく、ただ主観に基づいて行った行為が悪になっただけでしかない。そう考えるとリアリティのある悪役の考え方を一新しなければならないと思う。

全ては最高に間が悪かっただけの、冗談みたいな悲劇と喜劇なのである。

では、どうしたらいいのか?

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『JOKER』が素晴らしい映画である一因に、リアリティが確立されていることが挙げられる。現実に起こり得てもおかしくないのである。
ならばこのような悲劇や喜劇を食い止める方法を考えるのも意義はあると思う。

ずばり、己の主観だけに頼らず、他者の主観も尊重し、多面的に物事を見るのが必要ではなかろうか。

自分を絶対的に正しいと思い込まず、他者の在り方を的確に類推する必要性だ。フランクリン・マレーやマスコミのように他者を嘲笑の的にして傷つけるような行為は断じてNOだ。
今作のJOKERではほぼ困難とも言えるこの課題だが、一つだけ気になるところがある。

ジョーカーの前身たる「アーサー・フリック」は脳障害により「突発的に笑いが止まらなくなる発作」を持っている。個人的な主観でしかないが、この発作は私から見たら「泣いている」ようにしか見えなかったのだ。
ホアキン・フェニックスの名演技によって、作中で彼が心理的に不安定な状態に陥るとむせるように、泣くべきタイミングで大声で笑い出すのである。

もしあのタイミングで彼が泣いていたなら、カウンセラーや周囲の人々は彼に対して憐憫を多少なりとも向けていたかもしれないし、三人の会社員は気味悪がって遠のいたかもしれない。そうすればジョーカーを生むきっかけとなったあの事件は起きなかったかもしれない。
希望的観測にすぎないが、だからこそ今作のJOKERは残酷な物語であるとは思う。
「泣くという感情表現とコミュニケーション」を禁止された人間がその忌避で社会によって蹂躙されてしまう話なのだ。あまりにもひどすぎる。無理ゲーだ。

それでも、誰かが彼の涙に気づいて、少しでも優しさを向けていたなら、と思わずにはいられないのだ。

終わりに

自分なりにこの理不尽無理ゲーで残酷で、それでいて真理を突き止めた非常に深淵なるこの『JOKER』という映画に対する所感を書いてみたが、うーんあまりに雑多だ!
このnoteを見て共感してくれることがあったなら、それは前回と合わせて1万文字以上書いた甲斐があったというものだ。

……いや、さすがにここまで読んでまだ映画を見に行ってない人はおらんだろう。もし万が一にもそんな珍妙な人がいるのならさっさと劇場に走ろうね。

『JOKER』は、本当に最高の名作であった。
次にnoteで取り上げるならより本編の分析を行いたいとこだが、それにはもう一度見に行かなくちゃあな……
一旦しめくくろう。また会おう。

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