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シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム殺人事件 #同じテーマで小説を書こう

 その珍妙なメッセージは、密室の中で死体と共にあった。

 被害者である大富豪エフ氏は、自宅である屋敷の地下に建造したセーフルームの中で頭から血を流して絶命していた。
 死因は頭部外傷による失血死、火傷と銃創から9ミリ口径の拳銃だと推測されているが、凶器は発見されていない。セーフルームは核爆発防御すらも想定した設計になっており外部から破壊は不可能だ。遺言も残されていないから莫大な遺産相続を巡る遺族同士の空虚な争いが起きるだろう。

 エフ氏はなぜセーフルームの中にいたのか?
 エフ氏は何者かに殺害されたのか?
 もしそうだとしたら、どうやって難攻不落の密室に侵入し殺害し脱出したのか?
 この事件にはあらゆる難解な謎が内在しているが、特にある一つの謎がこの事件をより不気味で理解不能な領域に押し上げていた。

 シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム。
 エフ氏の大量の血液を用いられたその文字が、無数にセーフルームの室内の壁面床面にびっしりと書かれていたのである。

    ◆

 探偵に「休日」はない。「私」が座ったまま背筋を伸ばすと、事務所の椅子がキィと軋んで音を立てる。

 解せないのは、なぜそんなメッセージが現場に遺されていたのか。
 事故死の線は消える。おびただしい量の血液で描かれたメッセージをエフ氏自身に書けるはずがない。書いている途中で失血死だ。何者かがエフ氏を殺害後にその血液を用いて無数のシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムを書き残したと考えるのが妥当だ。
 一体なぜ、一体どうやって、一体誰が。
 そういった謎が頭を巡るたびに無数の推測が浮かび、そして頭の中でくしゃくしゃに丸めて脳みその中のゴミ箱に捨てる。ふと気づくと捜査資料で散らかったデスクの空いたスペースにコーヒー入りのマグカップが置かれいた。
 助手はデスク上の資料を一瞥すると「私」に尋ねてきた。助手はいつもこんな塩梅で勝手に資料を盗み見る。

「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムって、なんですか?」
「聞くところによると、料理らしい」

 シュプナニ・サラート・ス・ヤグラータンというロシア料理がある。茹でたほうれん草と炒めた玉ねぎをヨーグルトで和えて、黒胡椒とチーズで味付けするという極めてシンプルな料理だ。ヨーグルタムとヤグラータン、表記のズレや違いによって若干フレーズに違いはあるものの、ほぼ同一の料理を指しているはずだ。

「エフ氏さんって大富豪の大金持ちだったんですよね」
「まぁな。何か不思議か?」
「長い名前の割に地味な料理ですよね、シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム。お金持ちが好んで食べるものだとは思いません」
「エフ氏のお抱えのシェフも、そんな料理は知らないし主人に食べさせたこともない、と供述していたな」
「シェフも知らないような料理を知ってる人って、とても料理上手で家庭的な女性じゃないでしょうか? 自分の知ってる郷土料理の名前を、何らかの理由で書いたのだとしたら、容疑者は絞れると思います」
「……なるほどな。彼の隠された交友関係を探るのが良さそうだな」

 「私」は軋む椅子から立ち上がった。コートと帽子を被って扉を開ける。助手はしずしずと「私」の後に付いてくる。

    ◆

 結論から言おう。実に単純な事件でしかなかった。

 エフ氏は不治の病に侵され、密かに自殺することを決意した。
 同時に遺産だの金だのやかましかった親族に嫌気が指し、彼らを十二分に困らせてやろうと決断したらしい。
 エフ氏にはロシア系の若い女性であり、愛人のケイ(仮名)がいた。エフ氏は自分の血を何日にも分けて抜き取ってパックに保存し、セーフルームの中に籠もると密かにケイを招いて計画を明かした。

 これから自殺するから、私の血で家族への恨み言を書き残してほしい。

 そう言い残してエフ氏は自らの頭を銃で撃ち抜いた。
 ケイはその後、保存されていたエフ氏の血液でメッセージを書き残し、凶器の拳銃と遺言状を持ち出して屋敷から立ち去った。
 なんのことはない。如何に頑丈なセーフルームであっても「誰でも外から閉められる」のであった。屋敷の主の計画であったからケイの痕跡も一切残すことなく完全犯罪のようなものが成立しただけだった。
 ケイによる証拠隠滅はエフ氏が万が一に手配した弁護士によって情状酌量されるのが濃厚だ。エフ氏の遺言である「遺産は慈善団体に全額寄付する」も公開されたので彼の嫌がらせも本懐を遂げた。

 謎は残る。
 なぜケイはエフ氏の計画通りに恨み言を書かなかったのか。そうしていれば自分との接点も見つからず、完全犯罪が成立していたのに。
 それを尋ねると、

「彼はシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムが大好物でした。恨み言よりも、好きな食べ物に囲まれていたほうが、きっと幸せでしょう?」

はにかみながら、ケイはそう答えた。

【終わり】

私は金の力で動く。