見出し画像

おすずひめ物語の舞台千貫・深山を歩く(蔵王展望台コース)

岩沼に伝わる「おすずひめ」伝説の
舞台となった山を、千貫山・深山(みやま)と言います。

深山とつく名前の山は宮城県に多いです。
由来は諸説ありますが、三輪山の「みわ」が有力?

さて、この伝説、郷土史研究の方が、
「いつの時代の話し?江戸時代とか最近でしょ?」と
質問されたことがあるのですが、

伝説や昔話に、いつの時代に作られたか?
ということを伝えたいのではありません。

ずっとその話しを後世に伝えたかった大事なこと

かつては琵琶法師がいたように、
歩き巫女も舞姫とも言われたわけですから、
踊りながら伝えたこと=「芸能」
であることに変わりありません。

物語も「芸能」のひとつです。
そして、そこには美しい里の風景と自然があります。

地球の芸術であり、人が生きた証です。

そして、先祖が残したかったのは、
里で遊んだ森です。

では、春に歩いた記録を。

画像1

蔵王展望コース

「グリーンピア岩沼」には広い駐車場がありますので、
ここで駐車して(下にもあります)散策開始。(トイレあり)

画像2

コースを2つご紹介。まずは、蔵王展望コースから。
ぐるっと周遊しながらゆっくり歩いても
1時間くらいで山頂に到着します。

画像3

「令和2年6月1日より、グリーンピア岩沼プール棟・スポーツハウス棟(体育館)・屋外スポーツ施設・多目的広場・野外炊事施設及び日帰り入浴施設を制限付で利用を再開しております。プール棟(プール・トレーニングジム)は従来通り毎週火曜日が定休日となります。」

画像5

画像47

画像4

長~い杉の道。

画像6

途中で分岐するのですが、近道は「ふれあいの道」ですが、「どんぐりの道」を選んで赤松展望台へいきます。

画像7

(秋の赤松展望台)

画像8

手書きの地図があるので、助かります。

ありがたいね。

画像9

「急な下り」になりますが、この先はちょっと展望が良い所にでます。

画像10

ここから海側の展望が開けます。

画像11
製紙工場がよくみえます。

画像12

阿武隈川と海~。

画像13

つばきのトンネル。

画像14

画像15

小さな沢があり、このあたりから里の花々が群生しています。

画像16

画像17

イチリンソウ

画像18

カタクリの群生

画像19

画像20

画像48

小川がありますので、水は昔から豊富にあったと思います。

水車みたいのがありましたよ~。

画像21

画像50
赤松展望台から30分くらい歩いたところで、
べこ岩という岩にあたります。

画像22

こんなところに寂しくぽつ~んと。

画像23

画像24

ちなみに、深山山頂は、千貫山と連なっているので、
千貫山の手前が深山の山頂になります。
なので千貫山を目指せば、深山に辿りつきます。

画像25

ムラサキスミレ

画像29

大きなわらび!

この石は、ぽつぽつ穴がたくさんあいてます。自然か人工かは謎。

画像26

人工的にあけられたような穴?

画像27

千貫・深山には大きな石が埋まっている所が多いです。これらの石は、昔の蔵王の噴火の時に飛んできた巨石ではないか?と言われるのですが・・・

影の姿にみとれるカタクリ。

画像28

さて、この道をすすめば、再び分岐する道にでます。杉の道をすすめば山頂です。

画像30

山頂は、な~にもないです。
展望もないです。
大きな岩がぽつんとあるだけ。(明治26年の碑があり)

画像31

昔から千貫山は有名だったのですが、深山も有名だったのでしょう。
志賀郷と玉前郷は、500~1000人近い人が住んでいたそうです。

画像32

千貫山の奥の院へ

深山の山頂からさらに先へ進みます。

画像33

歩いて10分位で千貫の松まで行けます。

画像34

この尾根から阿武隈川が眼下に見下ろせる。昔は、もっと内陸にありました。すぐ山の麓まで川があったと思います。

画像35

岩沼の由来から。(岩沼市のサイトより:岩沼入門)

「今から2000万年以上前、人類の誕生よりはるか昔に、陸上や浅い海で、火山活動が盛んになり、岩沼の西部には小高い地域ができました。
それから長い年月をかけて、火山岩や溶岩が雨や風、川によって削り取られ、その上に火山灰が降り積もるなどして岩石の多い平野や丘陵地帯がつくられました。

画像49

縄文時代には、気候が温暖になり、大陸を覆っていた氷河が溶けて海へ流れ込んだため、海面が上昇します。海岸線が陸地に入り込み、約7500年前には、西部丘陵地帯の近くまで海が来ていました。

画像36
その後、逆に気温が下がりはじめると、海岸線が東に後退していきます。
その間、波の作用で土砂が溜まって周りより1m程高くなった浜堤(ひんてい)と呼ばれる南北に走る堤防がいくつかできました。

その最も西の浜堤付近には今の東北本線が通っています。
浜堤の周りは低地だったため、やや高地となるこの浜堤には、
早くから人が住みはじめました。

画像37

平野が広がると、阿武隈川は蛇行しながら海の方へと伸びていきます。
この川は何度も氾濫し、流路を変えたので、亘理町逢隈や仙台空港の方へも
流れたことがありました。旧奥州街道の岩沼小学校付近は、
阿武隈川が流れていたときにできた自然堤防の上です。

画像38

「岩沼」という地名が文献で初めて確認されているのは、16世紀半ば頃です。

この街道には、「玉崎の関」「武隈館(たけくまのたち)」もあった。
千貫神社から山頂191メートルまで松の巨木が一列に並んで群生していたそうです。

画像39

まるで馬の背のように巨木が群生する松だったので、
太平洋側から石巻牡鹿半島、金華山沖合で漁船をする船が漁を終えて帰る時、必ず南西にある千貫山に自生する松の木を目指して舵をとっていたという。

千貫山の松は、白鳳時代・奈良時代から有名だったそうです。
「名取の名勝松」として奈良や京都の貴族たちの間で、歌枕として詠まれてきました。竹駒神社は、武隈でした。
藤原実方も歌っている。
「みちのくにほど遠ければたけくまの松まつ程ぞ久しかりける」

※千貫神社(↓)大山津見神 千貫山の麓にあります。

画像40

729年と古い創建。漁民の海上で自分のいる位置を確認する「山立て」の目印としていた山です。

伊勢から派遣された巫女たちは、この高台から海を眺め、
祈祷をしながら津波を予測していたのでしょうか。

また、貞観地震があった際、朝廷から派遣された人たち(主に僧侶)が
被災地支援のように人々への施しを行っていたことが記録されています。

画像41

救済のための祈りや薬を売る?ことなども行っていました。
薬は、熊野修験の人たちが人々に伝えていたそうです。
不老不死といわれた伝説の薬草ですが、後に鈴に変化します。

下りは、歩いてきた道をもどります。平坦な道がずっと続きます。

画像42

ここから蔵王連峰がよくみえます。(鉄塔がある所です)

画像43

秋の蔵王展望台箇所から。(↓)

画像44

画像45

春の花々がいっせいに芽吹く時期がおすすめです。

画像46

次は、もうひとつのコースをご紹介します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?