【神社】名取熊野神社の老女宮とわらじ
今年は、名取熊野神社勧請900年になります。
名取老女が勧請した由縁によるものですが、
文献、史料が乏しい中でも、
長い間、伝承されてきた理由は何でしょうか。
老女神の由縁
新宮は、明治以降に熊野神社と称される。
初見は、『名取熊野神社文書』1341年(暦応4年)
祭神 速玉男命、伊邪那美命、事解男命、菊理媛神。
※事解男命(ことさかのおのみこと)掃きはらって生まれた神。
老女宮(老女神)の由緒
昔、名取に一老巫女がいて、深く紀州熊野三神を信じ、しばしば登拝したが
年老いて長途の旅に堪えず、鳥羽天皇の保安四年(1123年)三神の神霊を名取河南飛鳥丘に地を模し、紀州を象り西北に熊野本宮社、西南(吉田)に熊野那智神社を創建したと伝える。
※紀州本宮は十二社(上・中・下それぞ四社)のため「本宮」とつける。
中央に、証誠殿、
東側に、那智飛龍権現社、
西側に、十二社権現社を祀る。
新宮に三社が置かれていたため、名取熊野三社の中心地にあったとされる。
その西側には、勧請伝承に関わる老女宮が並んで建っている。
これら社殿とは拝殿と橋で繋がっていたのが、再建の際、年代が異なる理由で、橋を切ってしまったとの事。(残念)
また、社殿は無いものの、神名を記した9本の石の角柱がある。
記される神名はそれぞれ天之忍穂耳尊(おしほみみ)①、
邇邇藝之尊(ニニギ)②
彦火火出見之尊(ホホデミ)③
鵜萱草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)④
豊斟渟尊(とよくもかみ)⑤国狭槌尊(くにさつち)⑥
泥土煮尊(ういじに)⑦大戸道尊(おおとのじ)⑧面足尊(おもだる)⑨
『名取熊野堂縁起』による名取老女勧請由縁より
「お宮は新宮証誠殿で、左右は皆末社である。
西北に原野があり、飛鳥の里を移したもので、
西南の山は飛滝権現の那智山を象り、名取川は是を音無川とした。
熊野神社の建築
証誠殿と那智権現は、ともに1間1間で県内唯一の
「熊野造」という様式をもち、本宮十二社権現は、
3間1間で三間社流造別名二社造りといわれる様式。
建築年代は、証誠殿の勾欄柱擬宝珠に
正保2年(1645年)の銘があり。
那智権現社は側面、背面に蟇股(かえるまた)が
見られないなど証誠殿に比して簡素となっており創建年代は、多少遅れる。
本宮十二社権現は、ほぼ証誠殿と同時期とみられる。
老女宮はその後と思われる。
老女宮に置かれた「わらじ」は、崇敬者により奉納されたもの。
わらじは、塞神(岐神)の要素もあり、「ハヒキ神(波比岐」とも言い、足の神様=旅を守護する神様として崇拝されていた。
※フナト神(岐神)もあり、道祖神と同一。
小野宮司より敷地内には丸い石が納められていますが、4月の例大祭の1週間前に、氏子さんたちが掃除をされるとの事。
紀州熊野速玉大社(新宮市)
少しだけ紀州の熊野速玉大社についてご紹介。
紀州の熊野新宮は、「熊野速玉大社」である。
熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。
最初は、二つの神殿に熊野速玉大神、
熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀っていたが、
平安時代に、十二の神殿が完成。
神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に
熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、
そこで祀られることとなったと伝わる。
樹齢1000年のナギの巨木
遠い熊野の厳しい旅路を無事に果たしたことを
称えるために、ナギの葉を与えるという意味がある。
紀州熊野の旅を終えて・・・
冬でも紀州は暖かい陽気でした。
名取老女は長い旅路の中で、東北の厳しい自然環境から
紀伊半島の「壮大で寛容な」熊野のパワーを頂いたでしょう。
その力を、東北に繋いだ巫女であったことに改めて感謝の気持ちが湧く。
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