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松島の聖と大量の板碑が発見された雄島

名取老女伝説に登場する山伏は、松島へ行脚した話しがあります。

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「雄島」は、かつては、全国から僧や修行者がこの島に来て修行をしたといわれ、中世には「奥州の高野」とよばれていました。

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町営駐車場はちょっと上にありますが、ここは無料です。

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下を降りて信号を渡るとすぐ「松島離宮」があります。

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松島離宮を通りすぎて裏手に「雄島」の入口があります。

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松島にある「雄島」は、
松島の地名発祥と伝わります。

今は、松島離宮などができ、新しく変わっています。

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雄島について

古代の松島として最も有名な雄島であり、
瑞巌寺とゆかりの深い霊場です。

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雄島へ上陸する際は、渡月橋(とげつきょう)を渡ります。

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渡月橋は僧たちが雄島に入る際に、陸地の俗世との縁を切ることから「悪縁を断つ橋」とも呼ばれています。

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『立ち帰り またも見てみん 松島や
雄島のとまや 浪にあらすな』 
藤原俊成の和歌。

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『心ある 雄島のあまの たもとかな
月やどれとは ぬれぬものから』
後鳥羽院宮女・源師光女の和歌。

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「奥の細道」では、

「雄島が磯は地つづきて海に出でたる地なり。
雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。將(はた)松の木陰に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、落穂、松かさなど打ちけぶりたる草の庵閑に住みなし、いかなる人とは知られずながら、先ずなつかしく立ち寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」

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松島の聖

この雄島に一人の超人的な修行僧が住んでおりました。
その方は、「見佛上人」といい、
法華経6万部を読じゅした「見仏堂跡」があり、
鳥羽天皇からその高徳をたたえ、松の苗木本尊を下賜されたので、
雄島とよばれました。

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見仏堂

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「月まつしまの聖」「空の聖」などと称されその行者は、
さまざまな奇跡をもち、人々を驚かせその名声は、
日本列島すみずみまで及ぶほどでした。

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なかでも遠距離を瞬間移動する超能力は抜群で。
石川県(能登)の岩屋と松島の間を、毎月往復して、上の弓張の10日は能登、中・下旬の20日は松島というその暮らしぶりは、
西行法師の『撰集抄』にも伝えられる。

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西行が諸国行脚をしていた時に、能登で上人にあい、
問答をかわしたのは、40歳ばかりの僧でした。

自らを「月まつしまの聖」とよび、
人里はなれた荒磯の洞窟で修行中の聖は、西行の問いに答え、
住んでいる松島は月に10日は必ずいると言ったという。

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西行は上人に会うことができ感激してその後、
松島をめざし、西行がそこで再び上人に会うことはできたのだろうが、
「上の弓張の10日」というように、その間だけ姿をみせたという。

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妙覚庵・・・見佛上人がここに庵を建立し、
十二年間法華経読誦に過ごし、13世紀末には、
頼賢がこれを嗣ぎ二十二年間島に籠り、見佛の再来と仰がれたと。

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この物語は、法華経を読経することにより、
精神を鍛え、法力をもって人々の後世の頼りになる浄土思想を
導く宗教者を意味し、西行が学んだように、
人々にもその教義を受けることがあったそうです。

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この上人は実在し、宇都宮頼綱(源頼朝に仕える著名な御家人)
が出家して「蓮生」と号したのは1205年。

その没年は、1259年であり、見佛上人も同時代に実在したと
考えられるそうです。

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大量の板碑

宮城県の板碑の数は、最も多いのが石巻で、次に名取です。

松島の雄島にも、大量に1000点以上の板碑が発見されています。

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埼玉県秩父市野上の板碑(最大の板碑とされる)

板碑とは、中世仏教で使われた供養塔に使われる石碑で(卒塔婆ともいう)典型的なものは「武蔵型板碑」とよばれ、
発祥も埼玉県北部で、武将たちの間に広まる。

秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれます。
四国の阿波産のものもあるため、中央構造線と板碑には繋がりがあります。


松島の雄島にこの風習が及んだのは、
1286年を少しさかのぼるそうです。

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七海ゼミナール(日本中世史)では、「文部科学省大学院教育改革支援プログラム」の取り組みとして、松島・瑞巌寺と共同でこれを収集・調査し、
平成21年(2009)年8月5日現在までに、1378点の板碑破片(完形を含む)を確認した。
このうち、種子・文字が刻まれた板碑は449点で、全体の3割を超えている。

そして、これらの板碑のうち、
魔鬼女がいた石巻牧山産の「井内石」が使われていた。

※図 板碑の調査研究(東北学院大学)
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/facilities/museum/research04.html

もうひとつは、雄勝石。

雄勝地方の石は、おそらく、石峯山というのがあり、
百済王敬福の話しで「千葉大王」の人を祀る由来がある
石神社付近だと思います。

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※把不住軒(はふじゅう)は、雲居の座禅堂と伝わる。

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金華山に向かった儀式

雄島から金華山は見えないのですが、金華山の海上に昇る
初日の方角を拝む儀式があるそうです。

それが「火鈴様」というもので、
「コウリンサマ」と言うのです。

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大晦日の夜9時、雲版の乱打を合図に、住職代理の一僧が鈴を振り、
般若心経を繰り返し唱えながら、一晩中松島の海岸地区を歩きます。

火鈴様を迎える家は軒に提灯をつるし、机に灯明をともし、
茶碗に梅湯または酒を入れて玄関に置きます。

行者はその前で心経3巻を唱えたあと、箸で茶碗の中をかき回し、
飲んだ振りをして次の家へと回ります。

この地域では、火鈴様の姿を見ると目がつぶれ、また、火鈴の音を聞かずに
年を越すと五臓腸が腐れると禁忌されております。

家々では明かりを消して静かに待ち、火鈴様の残した梅湯や酒を分けて飲み、1年の災厄を払います。


上人がいた時代、末法思想があった後の奥州征伐で関東勢が多く、
陸奥へやってきたことにあり、
安倍氏と源氏の対戦など、激動な時代にあった頃。

その後の救済や、鎮魂としてこの地を選んでいたのかもしれません。

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冬の雄島

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小さな島なので、ぐるっと周遊しても1時間くらいで巡れます。

紅葉の時期がおすすめ。

■雄島 観る・遊ぶ 日本三景松島

https://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=142


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