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【口承】守家の名取老女について

名取老女の子孫:守氏の遠祖

仙台市太白区中田七丁目に「烏宮(からすのみや)」があります。
元は、名取郡中田村前田の地にあたるのですが、守氏は、名取老女の子孫と称されます。
以来、800年もつづく旧家です。

守氏の遠祖は藤原叙用(のぶもち)で、
叙用は利仁の子であり藤原鎌足の十世の孫とされます。

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※藤原利仁・・・『今昔物語集』の中に登場するモデル。
「悪路王を攻め、勅命により新羅に遠征」といった内容の軍事物語。
『田村草子』では、藤原俊仁として登場する。
 
 藤原叙用は、920年代の末期、武蔵国において神官を奉職し、
初めて斎藤氏を称しました。

その庶流は後世(1030年頃)名取郡前田荘の荘官になり、
斎藤壱岐尉源七郎がその初代。

源七郎は名取郡司のもとにあり、通称「斎藤壱岐」との事。

代々、壱岐源七郎を名乗り家紋は「丸に抱きおもだか」又は、
「菱形桁に抱きおもだか」。

その頃は、近接の領家が三軒しかなかったと言われるほど、
戸数の少ない時代でした。

しかし、先年宅地内から古い土器、縄文の壷と杯の二点出土したので、
この付近は大昔の住居遺跡と思われます。
(或いは、熊野の祭祀用器) ※1

3つの名取老女伝承

名取老女伝承には、主に3つあげられます。

1、熊野権現のお告げを受けた老女 (※名取熊野堂縁起)
2、出羽三山巡礼の山伏の手を経て熊野の神託を受けた前田の一里夫   (※嚢塵埃捨録:のうじんあいしゃろく)
3、熊野信仰が深いために京都に召しだされた伊腰=名取郡の老尉    (※嚢塵埃捨録)

共通する伝承は、「わらじを編んでいる」ことで、
足腰の病気を治す信仰です。

名取老女がわらじを編んでいたこと。
山伏の前田庄は歩くのが不自由だったこと(高齢のため)
伊腰という人も足が立たない人=「腰へきる」と書かれています。

3の老尉とは、官名の人で男性であり、「老女」とは、
「護法」という能の中に書かれた言葉で、
「老尉」を入れ替えたものとする説があります。

「尉」について、古代中国では軍事と警察を司る役職であったとされる。 現在の自衛官の位に「一尉」などとつける。(日本の律令制下における官職との事)他、能の老翁の役に対して「尉」もあります。
斎藤壱岐は代々、この地方の尉の地位にあったと伝わります。

斎藤姓は、斎宮の管理・監督の役職からつけられたと言われているため、都と結びつけるためにこのような伝説が残されているのかもしれません。

名取の隣にある岩沼市には、「斎宮」伝説があり、
特定される場所は千貫・深山の麓にあった『瑞応庵跡』としての尼寺が
あったと伝わり、現在は、民家になっています。

斎宮とは

斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)とは、
古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の
御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。

後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。

『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて
宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、
これが斎王(斎宮)の始まりとされる。※wikipediaより

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※賀茂斎院御歴代斎王神霊社御祭神(上賀茂神社)

斎藤姓の由来について『斎宮歴史博物館』によれば、
「藤原叙用(のぶもち)という人がいて、斎宮頭」とあり、
斎宮寮の長官になっているのです。

この人が、斎宮の藤原氏、つまり「斎藤」姓を名乗る人々の
ご先祖様になるのですが、斎藤姓から守氏に姓を変えたのかは、まだ不明な部分が多い。
安部氏や物部氏の一族たちが強かった為、吸収されたか婚姻関係があったのかもしれません。

※1「守氏の名取老女と烏宮の由来より」佐々木善喜氏

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