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【信仰】「あさひ」が伝える英雄語り

名取老女の別名を「あさひ」とよぶ伝承は、福島県伊達市(桑折町)地区で「貝田」と「旭」和歌巫女によるものです。

多くは、「旭」の漢字を用いますが、
「朝日」の場合もあります。

「あさひ」の名をもつ娘や巫女の伝承は、各地に広まっています。

名取老女がなぜ「旭」と呼ばれ、また名取老女と旭が結びつけられた理由は、まだわかっていません。
アサヒは、福島県桑折町の大聖寺の縁起によりますが、盲人の巫女(盲巫)たちがもたらした伝説も各地域に残されています。(敗者の武士(奥方)による語り部もあり)

これらは、奥州藤原氏や源義経、伊達政宗など、英雄を語り部として伝えてきた口寄せ(東北のオナカマサマやオカミサン)が背景にあります。


瞽女(ごぜ)縁起の「相模」

まず、瞽女(ごぜ)について。

日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称。

瞽女

近世までには、ほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人のこと。東北各地、福島県浜通り地方も訪れて、門付芸をしていたとされます。ラジオやテレビがまだ普及する以前、
農村部では農閑期にやってくる娯楽として歓迎されたことがありました。

wikipedia

瞽女縁起の中に
「嵯峨天皇の第四宮女にて相模の姫君」

という文面があります。

相模の姫君が盲人の子で、
七歳の時に紀伊国那智山如意輪観世菩薩
が枕元にたち、

「君は末世の女人盲人の師と成らせ給ふへし・・・」

とお告げがあります。

※那智山如意輪観世菩薩=青岸渡寺

この正式名を
「青龍妙音弁財天(出町)」と言うそうです。

びわ演奏の名家、西園寺家、伏見宮家がもたらした妙音弁才天とされます。

このような由縁は、
熊野権現が現れた名取老女縁起と同じく、

由縁には、必ず巫女と神との契約というものが含まれるものです。

天皇家の娘となっていますが、
尊い人や歴史上の英雄などを式目(演目)とするのが慣例でした。

西洋の叙事詩から語り部へ

「あさひ天女」という名が登場する英雄伝説があります。

『御曹司島渡』=室町時代の御伽草子(作者、成立年不詳)

藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、
「大日の法」と称する兵法書があることを聞いた
頼朝挙兵以前の青年時代の御曹子義経は、
蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王に会う事を決意する物語です。

義経がそこへ行くまでに様々な怪異体験をするのですが、
大王の娘と結婚し、兵法書を書き写し手に協力したのが天女(大王の娘)
=「あさひ天女」となっています。

義経はこの兵法をもって藤原秀衡の元へ行った話になっています。

「あさひ」は、巫女の総称ですので一般的かもしれません。

しかし、これらの話は、異界の島と考えられた航海神話が、
御曹司島渡の特徴であり、

古代ギリシャの長編叙事詩が16世紀頃の半ばに
イエズス会士によって日本に紹介されたことで、
日本に広まったと言われます。

つまり、西洋の吟遊詩人から日本に伝わり
インドではサラスバティの芸能の神となり、

日本では琵琶法師や口寄せ、瞽女によって「英雄を語る」
芸能になったといえるでしょう。

相模の姫とは妙音弁財天

そのため、この縁起の中にある「相模」である理由が、弁財天なのです。

妙音講も、瞽女と繋がっており、

妙音講とは、妙音天をまつって、その像に供物を供え、琵琶などの音曲を手向ける音楽の仲間の集会。昔、京都の西園寺家その他で催した。

コトバンク

ということから、由縁を相模にしたのは、

「江の島の弁才天」のことを示すためです。

江の島

日本三大弁才天といわれる八臂弁財天(はっぴべんざいてん)御尊像
は、鎌倉時代初期の作。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、
奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、 文覚上人に命じて造らせたもの。

江の島弁財天サイト

岩沼の金蛇水神社の弁財天と同じです。

それと合わせて奉られているのが妙音弁財天御尊像です。

左が妙音弁財天

2つの弁才天が江の島弁財天とされます。

岩沼の緑丸

岩沼の千貫森の山中にある大きな石碑「緑丸」もそのひとつです。

緑丸とは、
「百合若大臣」の物語に登場する鷹です。

百合若大臣

特に大分県や壱岐に伝わる伝説ですが、なぜか岩沼に伝わっています。

「百合若」という名の武者にまつわる復讐譚が室町~江戸時代にかけて人気をはくす読み物として流行します。

千貫山麓の「鷹硯寺」の名前がその鷹から由来すると伝わります。

永正年間(1504~1521年)に当時の陸奥鎮守府将軍だった
百合若大臣の夫人が、奥州では良い硯が手に入らないとの夫の願いを叶える為、京の都から飼っていた鷹に硯を託し夫に届けようとしたところ、
鷹は力尽きてこの地で息絶えたそうです。息絶えた場所が、現在「緑丸石」となって呼ばれているという。

鷹硯寺

百合若大臣も、古代ギリシャの『オデュッセイア』の
長編叙事詩と同じ内容です。

西洋からきた人達の伝承なのか、
百合若大臣は、壱岐で神おろしの時に巫女が伝えた祭文であったという。

緑丸と伝わる石碑

石碑にキリークがあり、「真言五仏」の、大日如来バン・阿閔如来ウン・勢至菩薩サク・阿弥陀如来キリーク・観音菩薩サ」の梵字が刻まれています。

「1724年、新田宗右衛門・南条○○・鷹硯寺」

女性たちが伝える歴史は、伝説の中に隠されているのです。

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