言ってもらったことを受け容れる義務はない。

 今年で二十六歳になるはずなのだが、まだ、若い若いと――というか「まだ若いからわからないかもしれないけど」とか「若いからそう言えるんだよね」とか、とても言われがちな私である。それでも、中高生や二十歳前後のころよりはずいぶんと言われなくはなってきたが、はー、まだ言われるんだなあ、とはふしぎな気持ちである。まずいくつくらいになれば年齢を理由に言われなくなるのだろうか? 三十代となり三十代であることが板につけばだろうか? ――とは二十代のいまだからそう思うけど、たとえば五十代のひとでも七十代のひとたちから「あんたまだ若いんだから」と言われているような現場をかくも見ていると、なんか、一生続くような気がしてならない。自分が人類最年長にもならないかぎり――って、ああ、だから不老不死とかとっても長寿の、それこそエルフとかでもよくいるけど「長老」っていうのは、ひとつの、理想形でもあるのかなあなんて。

 閑話休題。

 もちろん実年齢がなんであれ、そこまで「若い」というワードでいままでいろんなお言葉を年長者にいただいてきたということは、私の年齢というよりは私の立ち振る舞いや意見のほうが「若い」ふうに見えているからなんだろうなとは思う。
 それはじっさい自覚もあって、たとえば私は十三歳の六月に最後に嘘をついて以来「自覚的には嘘をつかない」という方針で生きているので、軽い気持ちやその場をおさめるためでも納得していなければ「納得しました」とは、言わない。まだそういうときに「言ってくれたという事実そのものには感謝の気持ちを述べて、あとはまったく黙って反論をしないようにする」というすべを身につけただけ、まあ、私としては少々おとなになったと思っている。

 そう、言ってくれることそのものはありがたいのだ。だって言うのは労力がいる。なんのかたちであれ、相手に述べたいくらいにはなにかすこしでも動機があって、指摘をしたいというお気持ちを感じる。
 私自身、他者に指摘をしたくなるときの気持ちというのは、身に覚えがある。
 そのうえでやはり思うのだ。

 言ってもらったことを受け容れる義務はない。

 こちらが言った立場として考えれば、相手がこちらの言うことをどうにも呑み込めないと、正直「あちゃー」と思うことは、わかる。
 けれどもそのときにはそのひとには呑み込めないというのがすべてだ。それは「劣っているわけではない」また「未熟であるともかぎらない(そのパターンである場合も多々あるのがまた話が煩雑になりがちな理由のひとつですが)。
 なぜなら人間というのはみな違い、言われたことを受け容れるそもそもの受容体である「個性」も、またそのひとのそれからの方針も、異なるからである。

 ただ、それでももしかしたらこちらの言ったことが「いつか役に立つかもしれない」し、だから言う。でもそれは「いつかはわかるよ、ふふん」という態度ではなく、あくまでも相手にとって役に立たなかったらそれはそれで唾棄するように処分してもらったほうがいい、そのひとがそのひとの選択と責任で生きていったほうがいい。
 そしてほんとうに長い目で見ていけば、なにかの件にかんしては意見が並行線となってしまっても、「このひとは意見を言ってくれる」という信頼は、長期の人間関係において個別の件以上のちからを、発揮する。友達どうしでどうっしても合わない意見をもつトピックがあるからといって、絶縁しませんですでしょ。恋人どうしや夫婦とかでいっしょに生活してたって、すべての一致はありえないわけじゃないですか。

 それに、言われたその場では頭に血がのぼってしまうのはみんなである。程度の差はあれ、まあまあ、みんなである。
 だから相手にその場でむっとした反応をされても、そのときは時間を置いて、続きは次回以降の機会とすべきだ。それは自分自身に置き換えれば多くのかたがわかるのではないだろうか。それこそ小説とかでもよくあるだろう、言われたそのときにはむっとして無視したり言い返したりしちゃったけど、帰ってお風呂とか寝る前とか、「ああ、でも一理あるなあ」って思っちゃう、っていう描写。

 そのうえで、
 こちらがなにか言った相手にはその内容を検討してみてほしいとは思うし、
 それを検討する余裕をきちんととれるよう、そのとき反応が悪くても深追いはしないし、
 そのうえでたとえ相手が私の言ったことを否とする結論を出しても、

 それはそれ。
 望ましい。
 ほんらいそうなのでは、ないだろうか?

「言ってやったのに」という気持ちはまあわからなくもない。言ったがわからすれば、気持ちもコストもかけるものなのは当然理解できるからである。そのうえで曖昧な反応や拒絶をされたら、腹が立つような気持ちも、わかる。

 だが言うことが義務ではないこととおなじく、
 受け容れることも、義務ではない。

 だから私はいつも最後はこう返すしかない、
「言ってくださったことは、とてもありがたいです。これからも、よろしくお願いします」

 そこにあるものが、あるとしたら、義務ではなく義理だ。
 義理はだいじに、したいけど……。


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