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可愛いわたしたち

初夏に書き始めていた日記の下書きを削除した。時間を置きすぎて賞味期限が切れてしまっていたし、無理矢理続きを書いたとて、きっとできあがるものはいびつで、とても人が読めるようなものではないだろう。誰に頼まれているわけでもないから、何の迷いもなくデータを消せた。足元で猫がにゃう、と鳴いた。

何かを変えようと意識しない限り、コピーしてそのまま貼り付けたような1日がやってくる。次の日も、その次の日もだ。
多少変わった出来事が起きても、時間という波によって、それらの出来事は簡単に攫われてしまう。記憶の中にあった凹凸が呆気なく平らになる。日常とはそういうものだと思う。諦念に限りなく近い怠惰な気持ちを引きずりながら、今日もまた繰り返しの1日が始まろうとしている。


目覚ましの音で意識が浮上して、携帯を手に持ったまま二度寝をし、それでも「もう起きる時間になっている」という事実が夢の中を侵食し始める。粘り強く私は夢を見続ける。この時点で目は覚めかけていて、鳥のさえずりや瞼の裏に感じる陽の光や猫の足音が現実という輪郭を作る。暫く「完全に無視をする」という姿勢をとるのだが、抵抗するのが馬鹿馬鹿しくなって目を開ける。陽の光が眩しすぎて、心の中で盛大な舌打ちをする。

お腹がすいているのか満腹なのかわからないまま、野菜スープを食べる。一応モデルをやっているので食には気を付けています、という姿勢で食べる。義務の味がする。好きとか嫌いという感情が存在しない場所にいる。きっとまだ寝ぼけているのだ。
10分も経たないうちに器は空になる。身体の中があくびをして目を覚ます。栄養がいきわたっていく。義務万歳。ありがとう健康。ありがとう野菜。すぐ手のひらを返す。

珈琲を淹れている間に、語学アプリを開く。
ルーティンというのはものすごく便利だと思う。なにをしようか迷う必要もない。で、規則正しく生きている自分に、少しだけ満足する。無事変わらない一日を過ごすことが、今日も私の世界は安全でした、という証明になる。こうして私はルーティンというぬるま湯に浸かって、日々つまらない人間像に磨きをかけている。

語学アプリを閉じ、代わりに本を開く。今読んでいるのは、西加奈子の『サラバ!』と、イリナ・グリゴレの『優しい地獄』だ。小説とエッセイを並行で読むのもいつの間にかルーティンになっていた。
この時間が一番時間を所有している、という感じがする。ちゃんと自分で時間を使っている、という感触がする。それ以外は、ひたすら時間の濁流に身を任している。水の流れは決まっているので安心ではある。ただ安心であるというだけだ。

キリの良いところで栞を挟み、また義務の時間がやってくる。筋トレだ。
歳を重ねるたびに太りやすくなっている。確実に。そして二年前に蓄えた脂肪がなかなか燃えない。
Twitterで頻繁に流れてくる「この漢方を飲んだら1ヶ月で8キロ痩せました!」「このストレッチを1日30秒するだけで確実に痩せます。痩せすぎ注意。」といった決まり文句に、海外のインフルエンサーから拾ったであろう若干画質の粗い画像を貼り付けた投稿を見ても、希望の光は射さない。分厚い雲が頭上を覆うだけだ。夢から覚めるのが嫌で、無理矢理二度寝をしている私の姿が重なる。夢を見ていたいのは皆同じだ。
YouTubeで「workout」というリストを開き、今日のメニューを決める。こんなに心が躍らないことがあるんだろうか。再生ボタンを押す覚悟がまだない。
一旦K-POPアイドルを見てモチベーションを上げようと推しのチッケムを観るものの、ビジュアルが良すぎて顔しか見てない。なんて綺麗なんだろう。後光が差している。気が付いたら推しのvlogコンテンツを観ている。一瞬暗くなった画面で自分のだらしない顔が映る。深く息を吸って、細く長く息を吐く。全ての感情を無にした後に「workout」の再生ボタンを押す。

汗をだらだらと流しながらひたすら身体を追い込む。推しのvlogの30分は一瞬で溶けていくのに、筋トレの30分は永遠かと思われるほど長い。涼しい表情で鬼のようなメニューをこなしていく画面越しのトレーニーに対して、段々と怒りに近い感情が湧いてくる。そして泣きそうになる。一体何をやっているんだ私は。カムバックを控えているわけでもないのに。途方もない気持ちになっても身体はルーティンに逆らえないらしく、鬼の形相でバービーをやっている。
三途の川が見えかけた辺りで「well done!」というテロップと共にトレーニングが終了する。その場に蹲る。身体が燃えるどころか灰になっている気がする。止まっていると余計に汗が噴き出す。
不思議と終わった後は爽やかな気持ちになっている。スケジュール帳にこなしたメニューを書いて、また少し満足する。誰に褒められる訳でもないのに毎日馬鹿みたいに汗を流している自分は、少しだけ可愛い。

家に篭ってばかりいるのも飽きてくる頃、散歩に出かける。ルーティンの奴隷と化した私は、いつも同じような時間に同じようなコースをただただ歩く。
自然は飽きなくていい。枝や花や落ちた葉は季節と共に違う景色を見せてくれるから。
この間は日が暮れて夜が起きだす頃、暗くなった空に虹がかかっているのを見た。日中より彩度が低いように見えたけれど、その淡い色合いが空に馴染んでてとても美しかった。この美しさをずっと忘れずにいたいと思った。辛いときや苦しいときに、頭の引き出しからとり出して眺めることができればどんなにいいだろうと思った。

ずっと忘れずにいようと思っていた瞬間が今までいくつあっただろう。そして、そうした瞬間も気づいたら手の隙間から零れ落ちていたりする。
その事実は少し寂しい味がするけれど、生きていれば再び忘れたくない瞬間が来るというのもまた事実だ。そうして、手のひらに溜まった美しい思い出を零さないように、指の隙間を固く締めて生きていく人間はとても可愛らしいと思う。いつのまにか隙間は開いてしまうのだが。

帰って、家族とテレビを観ながら晩ご飯を食べて、その後湯船に浸かる。お風呂の蓋に本を乗せて、汗をかきながら続きを読む。読書に夢中になって長風呂になるので、いつも湯船から出る時に立ちくらみがする。

ルーティンがひと通り終わった頃、今日も昨日と同じような日々を過ごせたことへの安堵と、これからもこの日常が続いていくのかしら、という薄い虚しさが身体に纏わりつく。
深夜になればなるほど、その虚しさとどこから来るのかわからない焦りが存在を主張し始める。

眠りを妨げるざわつきを誤魔化したくて、SNSを開く。深夜にSNSを開くのは虚しさを助長させるものだとわかっていても指は勝手に動く。
無限に湧き続ける、嘘か本当かわからない情報達。やっぱり大人しく目を瞑っていればよかったなと頭の隅で思いつつ、スクロールする指はなかなか止まらない。沢山の情報を浴びているはずなのに何も記憶に残らない。

誰だコイツらは。知らん人。知らん情報。聞きたくもない自慢話。知らん。知らなくていい。見たくない。興味がない。知らない。
段々と文章の理解が難しくなって何度も読み返す。ただ文字が乱雑に捨てられてるみたいで頭が変になる。
世界一無駄な時間。訳がわからなくなっているのは私か、と気づいて変な笑いが押し寄せた。あと数時間後には朝になる。また1日が始まる。


なんて私は可愛らしいんだろう、と唐突に思った。

諦めの悪さが、矛盾しているところが、全然何もうまくいかないことが、勝手に幸せになったり不幸になったりしているところが、5年後が怖くて暴れちゃう心が可愛い。承認欲求の奴隷になった人たちも全員可愛い。みんな特別なのに、競いたがるところが可愛い。その不器用さが可愛い。誰もわかってくれない、と駄々をこねてて可愛い。自分1人が孤独だと全員が思ってて可愛い。私たちは泥まみれでみんな可愛い。

頭が回らない中、それでも眠りにつく前になんとか自分を好きになれるような結論を捻り出して、気絶したように眠る。眠る直前に「(こういうしょうもない歌詞、たまにあるよな)」と漠然と思ってしまったせいか、なんともむず痒くなるような夢を見た。しょうもなさで競うならば私に軍配が上がりそうだ。

これからもきっとしょうもない日々を過ごす。今までもそうだったし、これからもそうだと思う。で、たまに生きててよかったと思えるような素敵なことが起きる。今までもそうだったし、これからもそうだと思う。そうであってほしい。
深刻に考えるのは余裕がある時でいい。多分なんとかなる。多分、を信じる。いつか「可愛い」で済まなくなる日が来ても、それでいい。その時に考えればいい。

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