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日记

水嵩がすっかり減って、ぬるくなった湯に浸かりながら多和田葉子の「地球にちりばめられて」を読んでいたら、23歳になった。

22歳になってからの1年間は、新しい環境に飛び込んで、もみくちゃになりながら日々を過ごしていた。擦り傷と共に、色鮮やかで何にも代え難い瞬間を得た。新しい世界を沢山知った。世界は自分が手の届く範囲にしか存在しないのだ、という言葉を思い出した。

こうして自分というものが広がっていくのだと思った。広がりすぎて、私の手から零れ落ちてしまうこともしばしばあった。
そうして手に負えなくなっても、時が経てば恒常性のようなものが知らず知らずのうちに働いて、異物も自分の中に吸収されていった。

頭の中は、衣類を畳まず力任せに押し込んだクローゼットみたいに混沌としていた。
最初から片付ける習慣をつければ何も迷わず散らからず、とわかってはいる。
だがしかし、これ以上散らかりませんというところまで散らかして、しわになった衣服を馬鹿みたいにでかい溜息をつきながら畳むような人間なのだ、私は。片付ける人は自分しかいないのに。


所属していた事務所を退所して、しばらく宙ぶらりんで過ごしていた。一度椅子に座ったら腰が重たくなるのと同じで、惰性で日々を消費していた。バイトしかやることがなかった。
街の人間がくたびれた様子で帰っている時間に私の1日が始まり、街の人間が重い足取りで出勤する時間に、私の1日は終わった。たまに、流れに逆らうことを躊躇って、人々が作る流れに身を任せそうになることもあった。

間違いなく、人生で一番社交的に過ごしていた。
人と関われば関わるほど、自分がこうでありたいと願う像と、実際見えているであろう像のギャップに勝手に苦しんだ。他人が生活に入ってきた途端、自分の嫌なところばかりが浮き彫りになった。
周りの人は皆瑞々しく、美しく生きているように思えた。人は、他人のほんの一部しか知ることができないということを、時々忘れそうになる。

自分の内面と向き合い、それなりに苦しんだのとは全く別で、バイトは楽しかった。今も楽しい。
周りの人に導かれて、舟から舟に飛び乗るように、私は広い海原を旅した。

そうして、人と関わることの喜びと、一人で過ごす時間の愛しさが内側から育って、知らぬ間に立派な大樹になっていた。その過程で、あらゆる物事に対する適切な距離感に気づくことができたと思う。
身体が心地よい疲労で満たされている。
何もかも予想通りの人生は退屈かもしれない。が、今は少し旅に疲れて、鏡に映る自分を見るのも億劫で、そんな退屈な日常を求めるようになっていた。

パーティーの後片付けをしている時の、気怠く、夢から醒めたような気持ちを抱えて、静かに私の愛すべき日常が戻ってくる。


4月から、新しい事務所に所属した。同じ業界ではあるけれど、なんとなく真新しい気持ちになる。
ずっと、将来のことで悩んでいる。どれくらいこの業界にいるか。何がしたいのか。どう生活していくか。
そうしてくどくど悩んでいる間にも時はすぎ、歳に重みが出てくる。
長く留まっていても結果が出ない時は出ないし、この先の保証は何もない。何事もそんなに都合よくいかない。私の目指す、予想通りの退屈な日々とは程遠い生活かもしれない。
それでもこの業界に留まることに決めたのは、好きというどこまでも単純な気持ちが自分の中にあったからだ。理由なんて、本当に些細なものでいいはずだ。大きな野望とか、大層な夢は持っていないけれど、手荷物は少ない方が身軽でいい。

肩の力を抜いて、深呼吸して、時々自分の中の空気を入れ替える。息が整ったらまた旅に出る。

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