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思い出の濃度

遠い昔の思い出なのに、つい昨日のことのように思えたり、数日前の出来事なのに、なんだか夢の中の記憶だったかのように感じたり。

たった1秒の景色がずっと心に刻まれて離れない、その瞬間を露光させて像を残す、フィルム写真のように。遠くて近くて、あたたかくて、かけがえのない宝物のように輝く。そんな記憶のカケラは、きっと誰もが持っているのではないかと思う。

時間が流れる速度はいつどんなときも等しいはずだけど、人が心で感じる時間の流れは一定ではない。
そもそも時間というものは目に見えるものではなく、太陽の動き、地球の回転、昼と夜の長さ、それを測ったり分割したりして、勝手に暦や時計を生み出して、私たちの暮らしの中で「時間」としているだけだ。
1日、1時間、1分、1秒という単位は、私たちが作った物差しに過ぎない。時間という存在はそんなものでは測れない、本当はもっと流動的で自由で、ゆらゆらしたりぐにゃぐにゃしたり、くるくるまわったり時々止まったり、しているのかもしれない。

なにもない部屋に一人、ただ空気を見つめて過ごす時間。大好きな友達と、きれいな景色を眺めて楽しくおしゃべりする時間。
その時間の流れが異なるのは歴然で、その差とは、単純に「楽しい」というような感情の動きではなく、その時間に感じている「深さ」とか、注がれている「想い」のようなものが、その時間をぎゅっと凝縮させる。時間の長さよりも、その時間の「濃度」によって、記憶の残り方は変わる。

それはすごく不思議な感覚で、その時間は確かに存在したのだけれど、まるで時空を超えて、永遠に繰り返し再生されるような思い出。
きらきらと眩しくて、両手でやさしく包むことはできるが、決して触れることはできない。

スノードームに閉じ込められたような、小さな小さなわたしだけの世界。
たまにそっと取り出しては、やさしくひっくり返して、きらきら光る景色を何度も見つめる。

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