見出し画像

遠藤周作の「侍」がたどり着いた港 チヴィタヴェッキア

ローマの外港チヴィタヴェッキアには、ある侍の彫像がたっています。

そう、太平洋、大西洋と二つの大洋を渡り、1615年にチヴィタヴェッキアに入港した慶長遣欧使節、支倉常長の像です。

支倉常長は、通商交渉(あるいは倒幕準備の軍事同盟?)のため伊達政宗によりヨーロッパに派遣され、スペインでは国王フェリペ3世とローマでは教皇パウルス5世に謁見しています。

支倉常長がたどった航路

長い航海をフランシスコ会の宣教師とともにした支倉常長は、キリスト教に改宗していますが、それが目的達成のためだったのか、心から信じたためなのかは、彼自身が記した日記が紛失してしまったため今となってはわかりません。

遠藤周作は、支倉常長をモデルとした小説「侍」の中で、彼が洗礼を受けるまでの心の葛藤を描いていますが、小さな島国の日本人が全く違う石の大陸文化を見た時の衝撃はいかほどだったか想像できます。

戦後10年ぐらいに、高校生だった私の父がアメリカの戦艦に乗る機会があった時、船中のブッフェの食糧の豊富さを見て「これで日本は戦争に負けたのか」と納得したと以前話してくれたことがありますが、常長が受けたカルチャーショックはその何百倍であり、その文化に圧倒されずにはいられなかったと思います。

ただ、ボルゲーゼ枢機卿の命で当時油絵で描かれた常長の肖像画や今でも残るエピソードによると常長の方からも日本の侍の素晴らしい文化を当時のヨーロッパ人に知らしめたように思われます。

目的を達成できずに常長が帰国した1620年、日本はすでに禁教令がしかれていました。彼は、時代に翻弄されたわけですが、アメリカ大陸の例を見る限り、当時の幕府の賢明な判断のおかげで、今でも 日本人が日本語を話し、それなりに独自の文化を保てられているのだと思わます。

チヴィタヴェッキアに残る1537年に完成したミケランジェロ要塞。 8角形の塔の設計を
ミケランジェロが行ったと言われているためこの名がつきましたが、 確かな証拠はありません。
支倉常長がただりついたチヴィタヴェッキアの現在。


素直にうれしいです。ありがとうございます。