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スポーツの価値を考える


スポーツの価値とは

そう考えるようになったのは
大学卒業後実業団選手として競技を
続けるようになってから

全国大会出場経験はあるものの
オリンピックを目指せるかといえば
可能性は正直低かった

就活もしてみた
だけどなんだかしっくりこなかった
内定した会社を辞退して
競技を続けると決めた

このエピソードだけだと
自信が過剰にあるように思えるが
その逆だった

自信は全くないけど
そうするしかなかった

ある意味、逃げだったのかもしれない

というのも
当時のわたしは、スポーツの価値すら
まともに答えることもできず
ならば働くことも
良くわからなかったから

結局実業団選手という選択をしたけれど
雇っていただいた会社に
アスリート社員はおらず
他の社員の人たちはよく不思議そうに
わたしの取り組む競技について
聞いてくれた

自分の取り組む競技の世界では
知らない人はいない
元オリピアンの人すら
わたしの勤務する社内では「、、、誰?」
となる

この価値観の全く違う空気の中で
自分自身の価値観も揺らぎまくっていた


社会人という立場の上で
競技をしてお金をいただく

ということは

競技をして社会に何かしらの貢献を
すること
だと思っている

だけど、スポーツに興味がない
あるいはスポーツを知らない
スポーツに関わる以前に生きるために
必死に汗水流す人々にとって

スポーツとはかけ離れた存在だった


わたしは小学生の頃から
競技を続けていただので
当たり前に運動することや
スポーツの世界があったし
その中で生きていた

だけど少しその枠から離れただけで
こんなにも捉え方が違うのか
と呆然とした


同時に、スポーツとは違うフィールドで
人のために働く人たちに出会った


自分の好きなことをして
人のためになっている人とも出会った

スポーツを否定するわけではないけど
どうしても
スポーツを自分がすることで
わたしの助けたい人たちに
ポジティブな影響を与えることは
できないな、と思った


と同時に
スポーツは手段である
と自分の中で結論づけている


スポーツでもスポーツでなくても
オリンピック選手でもサラリーマンでも
本質は同じ

納得感を持って生きているか

本当にやりたいこと
生きたいように生きていること
成長できること
楽しさや爽快感を感じられること

守りたい存在や
目的があるということ


そういった生きる上での
自分のポリシーと本質と
その手段(スポーツ)が合致しているかどうか


結果にこだわることなく
結果が生まれてくること


スポーツは可能性を広げてくれるものの
一つ

だけど
部活動や大学スポーツで
どのように捉えられているのだろうか


違和感を感じる


スポーツを手段として
何を育むか

もっと柔軟な世の中になればな
と恐縮ながらふと思った

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