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私がいたはずの未来

子どもが産まれて1年と少し経った。

これでもかというくらい日々写真を撮って、かつてないほど四季の移ろいをじっくりと味わって、一方で腰痛やら肩こりやらに悩まされた。産後のばね指に始まり、肩、腕、腰、股関節、全身の各部位を順番に痛めるから鍼や整体が欠かせない、そんな1年だった。生活が激変した。

子どもはかわいい。そして愛おしい。
こんなにも愛する対象が世界に存在していたことに驚いている。誰かを愛するということを私はこれまで理解していなかったのかもしれないとさえ思う。あんなに聴いたり歌ったりしていたラブソングの歌詞の意味がようやくわかるようになった気もする。

例えば「自由」
例えば「夢」
盾にしてたどんなフレーズも
効力(ちから)を無くしたんだ
君が放つ稲光に魅せられて

Mr.Children「365日」

ミスチルの名曲「365日」がシャッフル再生されたスピーカーから不意に流れてきたとき、深く共感した。自由も夢も、今の私はあっさり手放していた。あんなにこだわっていたはずなのに。

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1年前、子どもが産まれた直後のこと。
産後すこし長めの入院生活を経て退院し、子どもと私は1か月ほど実家に里帰りした。すでに引退している両親との暮らしはひたすら平和で多幸感に満ちており、特に事件もなく、穏やかでゆるやかであたたかな時間だった。

高齢出産あるあるなのかもしれないが、肉体的ハンデと引き換えに精神的な余裕があるのには自分でも驚いた。
いざ育児が始まってみると、確かに睡眠時間は細切れで質の高い睡眠が取れない。とはいえ、仕事で直面したひどい時差ボケよりはマシだと感じていた。
目を離したら死んでしまうかもしれない存在に24時間ずっと神経をとがらせるのも、なかなかのプレッシャーだった。けれど、それを乗り越えてきた先人たちの知恵と工夫にスマホから簡単にアクセスできる時代、考えうるリスクを想定して準備できることで、心の安定は保たれやすかったように思う。

先行き不透明なイレギュラーに遭遇し乗り越えるなんて仕事をしていればよくあることで、その経験値が図らずも慣れない育児生活を支えてくれている。それなりにハードだった過去の瞬間を思えば、育児の中で訪れる瞬間はかわいいものだ。今のところは。
肉体的にはボロ雑巾だけれども。

概して幸せな1か月の里帰りを経て自宅に戻ると、新生活はまた違った局面を迎えた。家事負担である。里帰り中は家事をすべて母にお任せしていたのはもとより、産前まで洗濯も自炊も週2〜3回程度しかせず、お掃除ロボットを始めとしたハイテク家電に頼った生活をしていた私。そこへ、一日2回の洗濯、外食できない毎食の準備、加湿器の水足し等いわゆる名もなき家事の激増が突如降りかかってきたのだ。
この生活は一体なんなんだ? 育児に付帯する家事がここまで多いなんて知らなかった。

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次第に忙殺され始めたそんなある日、私は抱っこひもで子どもを抱えて近所をお散歩していた。
クリスマスが近づいた夕暮れで、通りがかったおしゃれなガラス張りカフェにはクリスマスのイルミネーションが施されていた。オープンしたばかりで混んでると思っていたけど、平日夕方は案外ゆとりがあるらしい。食事もコーヒーも美味しいと評判で、外装も内装もおしゃれ。きらきら輝く光に包まれて、2階の窓際がよく見えた。

ある人が白いマグカップを片手にゆったりと座り、Macとおぼしきパソコンに向き合っていた。おそらく仕事をしているんだろう。
ふと、頭をよぎった。私がもし妊娠出産していなかったら、その席で仕事をしていたのは私だったかもしれない。カフェで仕事したい気分のときもあるし、誰かとカフェで打ち合わせをした後そのまま次の予定まで残って仕事していくときもある。
自分の時間を自分のためだけに使うことは、自分の人生を自由に生きているように見えるものだ。自由を求めた私は、いつどこでどのように働くか自分で決められる環境を手に入れたくて、何年もかけて作り上げ、なんとか維持してきた自負がある。

それなのに、今の私はどうだろう。すっぴんにボサボサの髪に上下スウェット、スニーカー。子どもを抱っこした上から着古したダウンコートを羽織る。脳からアドレナリンなんて出る気配すらないし、仕事を通じて得られる充実感や幸福感がどんなものだったか忘れかけている。真剣な面持ちで窓際に座るその人とは、見事なまでに対照的だ。今の私は日々の家事育児に邁進するよくいる”母親”の一人でしかない。

思い切って、自分の心から自然とわきあがる声に耳をすませてみた。

「うらやましい‥」

とは、思わなかった。
意外にも。

うらやましいともうらやましくないとも思わなかった。
その人は確かにきらきらして見えた。いつかの私が大好きだった環境で自由に輝いているように見えた。それは、私がいたはずの未来ではなかったか。自分なりに輝いていたあの頃の私の延長上にあった未来。

それは、気づけば今の私にとって執着する意味のないものになっていた。

今の私は、自分の人生を生きているというよりむしろ子どもの人生の一部を生きている。夫の人生の一部も生きているかもしれない。私の未来は私だけのものではなくて、家族のものでもある。私は命を削って子育てするけれど、そうして削った命が家族の中で息づいていく。私はそれを幸せという言葉以外で言い表せない。

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幸せとは 星が降る夜と眩しい朝が
繰り返すようなものじゃなく
大切な人に降りかかった
雨に傘を差せる事だ

back number「瞬き」

back number「瞬き」が最近好きで、よく聴いている。

ある日のお散歩で予定より早く雨が降り始めたことがある。
私は小さな折りたたみ傘を広げて、迷わず子どもをすっぽりと覆った。傘が小さいから私の背中は濡れた。子どもが濡れなければそれでよかった。

この歌詞の中でも、傘を差した本人は雨に濡れていたんじゃないかなと勝手に想像している。

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