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変貌する街と人

中国ではどの町に行っても、露天販売、露天営業の店が多いのですが、離石の街角にもいたるところひしめき合っています。食べ物屋では、テントを張ってテーブルとイスを並べた小店舗風の店から、リヤカーに燃料タンクを積んだ焼き芋屋や中華クレープ屋。自転車の荷台に飴やみかんや金魚をくくりつけたもの、地面に座って客を待つ占い師、日本には絶対にない露天歯医者まで種々様々です。

これらの営業にもやはり当局の許可が必要ですが、無許可の人がほとんどで、取締り当局の車がやってくると、みんなさぁーっと荷物をかたずけていずこへともなく姿を隠し、当局がいなくなるとまたいずこからともなく戻ってきて営業再開ということになります。

今日離石で、地面に布を敷いてその上にアクセサリーを並べて売っているチベット族と思われる若い女性の姿を見かけました。話しかけてみるとものすごく流暢な標準語を話すのであれっ?と思って、どこから来たのか聞こうと思った瞬間、当局のワゴン車がガガーッ!とやってきて、彼女の商品のまさに10センチ手前でキキッ!と停まったのです。まったく子羊に襲いかかる狼のような威嚇的なやり方で、運転席に座っている係官もくわえタバコで彼女を睥睨します。

しかし彼女も堂に入ったもので、少しもあわてることなく、ひとつひとつていねいに商品をしまい、最後には「タイヤが布を踏んでいるからかたずけられないじゃないのっ!」(実は踏んでいなかった)とくってかかって、ワゴン車をバックさせていました。

ときに当局の強制執行があって、商売道具を根こそぎ持っていかれてしまうのですが、中には当局に石を投げたりして果敢に抵抗する人たちもいるようで、今日はちょうどその現場に居合わせました。なぜかテレビ局のカメラクルーも来ていました。それがなんと、当事者は、私が顔を見るたびに話しかけていた金魚売りのおじちゃんだったのです。当局の車に乗せられていずこへともなく去って行きました。

以前、太原に行った時のこと。ウイグル族の青年たちが屋台でモスリムの窯焼きパンを売っていました。インドのナンと同じような焼き方ですが、これはもっと厚めで香ばしくてとてもおいしいものです。ちょうど私が買っていた時に当局がやって来て、数人の男たちが彼らの商売道具を何から何までピックアップトラックに乱暴に放り上げてモノも言わずに去って行きました。青年達はもちろん状況をよく把握しているのですが、「ウイグル族にだけこういう仕打ちをするんだ」と涙ぐんでいました。私はなぐさめる言葉もなくて、「みんなでご飯でも食べて」と、ちょっとだけカンパを渡して別れましたが、オリンピックが近づくにつれ、こういった光景が目につくようになったような気がします。                (2006‐12‐02)

変貌する磧口
樊家山のような“田舎”から、磧口のような“町”に出てくると、ほんとうに喧しいなぁと思います。なぜそんなに喧しいかというと、それは今、磧口がグングンといや増しに高度成長を続けている真っ只中にいるからです。

3年前に初めてこの地を訪れたときは、ほんとうに眠ったような“うらびれた”村でした。それが国を挙げての“観光による村おこし”政策が功を奏して、今や北京や太原、はては上海から、“母なる黄河”と“失いしものへの郷愁”を求めて、カメラやスケッチブック片手に観光客がやってくるようになったのです。そして当然のなりゆきとして、多くの村人たちの最大の関心事は、どうやってお金を儲けるかの一点に集約されてきたようです。

古鎮賓館の劉老板の「中日友好文化交流センター」は来年の3月に発足するそうです。これは、私がいなければ体を成さないわけですが、私は手伝う気はありません。しかし「磧口撮影者協会」というのが知らない間にできていて、劉老板が“主席”の席に納まっていました。なんでも、来年から磧口で毎年写真展を開催して、出展者からお金を取るのだそうです。確かに観光シーズンともなれば、 Made in Japan の一眼レフをぶらさげた観光客が、引きも切きらずやってくるわけですから、いい金儲けの方法だと思います。最初に目を付けた老板のヒットでしょう。で、老板が、「写真をDVDに焼くから、日本に持って帰って宣伝してくれないか?国際写真展にしたいんだ」というのです。ともかく写真を見てからということで、ひとまずは逃げました。

すると、前から知っている老板のお兄さんがやってきて、「紅景天」という漢方薬のマーケティング会議を臨県でやるので、ぜひ参加してほしいと、私の杯になみなみと白酒を注ぎながらいうのです。なんでそんなものに私が参加しなきゃならんのか、時間がないと断りました。この薬はハゲにも効果があるとかで、確かに人体実験中の彼の頭は、見違えるように黒々とした髪が甦り、正直いって、私は初め彼とはわかりませんでした。

3番目に待っていたのは、撮影者協会の会員で、黄河に観光船を浮かべて商売をしている人です。どうやら彼の日本製の商売道具が故障したので、部品を日本から持ってきてくれないかと言っているようです。私がまったくわからないフリをしてとぼけていると、頼んでもいないのに劉老板が紙に書いて差し出しました。おじさんの要求は、YAMAHAのモーターボートのエンジンが壊れたので、新しいのを持ってきてくれないかということだったのです。

もうあきれはてて、私は小雪降る中を散歩に出かけ、しばらくして戻ってくると、なんでも朝鮮戦争のとき、鴨緑江を越えて朝鮮に渡り、7回も米軍と戦火を交えたというじいさんが来ていて、その武勇談でかなりもりあがっていました。興味はあるけれど、なにしろ言葉が全員“外国語”なので、私はお先に失礼して、冷たい布団(古鎮賓館はヤオトンではなく、バラックのような建物なので、ほんとうに寒かった)にくるまって寝ました。
                          (2006‐12‐06)

ケータイやられました
日本から、「こないだ電話したら中国人が出たけど、ケータイ変えたの?」というメールが届きました。違います。盗られました。これで2度目です。1回目の犯人はわかりませんが、今回は、はっきり顔を覚えています。考えてみればよくある手口で、彼はこれを“本業”としているのでしょう。

私は黙っていれば身なりといい、化粧っけのなさといい、離石ではこの土地の人と区別がつかないはずですが、背負っているものがいけません。長年愛用している Karrimor の登山用リュックです。なにしろ町に出るときはパソコンやらデジカメやら電子辞書やらMP3やらその付属品やら‥‥その上にパスポートと現金。とにかくいつどこで必要になるかわからないから、全部持っていくので、やたら重く、これが一番楽なのです。で、こんなものはフツーの本地人(*その地の人々)は背負っていません。遠くからでも“外地人(*外から来た人)” 、つまりよそものとわかって狙われるのです。

今回は、離石の市内バスの中で隣に座った男ですが、私と一緒に下りてきて、樊家山行きのバスに乗り込みました。出発までには30分以上あります。彼はまず私に時間を聞きました。それで私はケータイをコートのポケットから出して、時間を教え、それをまたポケットにしまったわけです。その後彼は、荷物を網棚に上げてやるだの、席を替わってやるだの、足元のゴミを捨ってやるだの、後から思えば、何とか私の注意を他にそらそうとあれこれ話しかけてきました。むしろ日本なら奇妙に感じたと思うのですが、こちらではそういう人は特に珍しくもないのでうっかり気を許していたのです。

そのうちに、ふと気がつくと、彼はバスから下りていなくなっていました。私のケータイと共に。そしてもうひとつ頭に来るのは、近くにいた人が、その現場を見ていたというのです。なぜ教えないんでしょう?わかりません。中国には“他人のどんぶりをとってはいけない”といういい方があるようですが、他人の仕事のじゃまをしないということでしょうか?

中国は日本の10倍以上の人口があるので、きっとどろぼうも10倍以上いると思うのですが、そういう連中が、例えば離石のような中小都市、つまり豊かさと貧しさの交差するところに集中しているようです。 (2006‐12‐23)

メリークリスマス!
クリスマスイヴの24日、樊家山に戻る前に離石の市場で買い物をしていたら、鶏屋の前で、烏黒鶏ウコッケイの若いヒナを売っているのを見つけました。日本では愛玩用として飼育されることが多いようですが、ここではもちろん食用(とても栄養価が高いそうです)で、値段を聞いたら1羽ではなく1斤18元、つまり1Kgが36元という量り売りでした。全身が真っ白で、頭の上にも白い綿のような冠をつけていて、とてもきれいな鶏です。

で、私はまたぞろ禁を犯して2羽買ってしまったのです。3元ほど値切って35元。それは、今夜がクリスマスイヴというのがいけなかったのです。なぜなら、街角には英語版のクリスマスソングが流れ、ショーウィンドーにはサンタさんのシールがにっこり微笑み、プレゼントショップが賑わっているのに、私には誰もプレゼントを買ってくれないから、これはもう自分で買うしかないと思ったからです。しかし今回は買うときに固く決意しました。もともと食肉として売っていたのだから、「飼えなくなったら食べる」。

おじさんに公鶏(オス)と母鶏(メス)を選んでもらい、いつものバスに乗って、夕方我が家にやってきました。おなかが空いているだろうと思って、さっそくアワと米をあげたのですが、その食べること食べること。店ではちゃんと餌をあげてなかったのかなぁと言ったら、「そんなことは絶対にない。だって量り売りだったんでしょ?」とグオ老師にいわれてなるほど!と納得し、これは明日にでもアワの備蓄を考えないといけなくなりました。ここらではアワはどこの家にもあって、これまではくれるというのをいつも断っていたのです。しかし、人間の主食を鶏に食べさせるから急に下さいというのもいいづらいし、やっぱり町まで買いに行った方がいいのかなぁと悩みます。

今は使ってない方のカマドのた焚き口(部屋には2つカマドがある)が、ちょうど具合のいい巣になるので、今はその中で静かに眠っていますが、さて、明日の朝は何時に起こしてくれるでしょうか?   (2006‐12‐28)

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