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雨を泳ぐ

どんよりとしたグレーの雲が空を全面おおっていて、じめっとした雨が降り続く日々は、気持ちもいまひとつ晴れない。

雲の切れ間から青空がのぞいたかと思えば、ばけつをひっくり返したような土砂降りになって、閉め忘れた窓から雨が吹き込んでカーテンがびしょびしょになったり。

もしかしたら50%の確率で降るかもしれない雨のために、傘を持ち歩くなんてわたしにはできないし。

雨はなんでこう憂鬱なんだろう。

なんで、こんなにも気持ちがふさぐのか、頭も肩も石を詰められたようにずーんと重い。ほんの小さなことなのに、ずっとまぶたの裏にこびりついてはなれなくて、なにも変わってない日常なのにどうしても悪い方向に考えすぎてしまったり。なんで。

自分のとりまく環境について、俯瞰して見て、無駄にネガティブに人生をなぞってみたり。なんで。

でも、そんなわたしには天気を変えるほどのちからもないし、今日も明日もまた傘をさして濡れるのをがまんしながら歩き出さないといけなくて。そんな毎日がしんどい。

でもぜんぶ雨のせいなんだ。

きっとそんな風にわたしと同じ気持ちで、雨が通り過ぎるのを悶々と待っている人はたくさんいると思う。

雨の楽しみ方を知りたい。いつだって雨はわたしの人生を邪魔してくる、なんて表面的に考えてしまう。

ドラマや映画で、主人公が失恋したり、なにか良からぬことが起きた心情描写として、突然雨が降ってくる。もはや定番のシーンなので、なんの疑問も抱かないが、冷静に考えてみると現実でそんな「ちょうどよく」雨が降ってくることなんてない。

喜怒哀楽で雨雲が操れたら、大変なことだ。なのに、雨を嘆くわたしたちは雨雲に喜怒哀楽が操られてる。

しかも、雨はいつだって、空気を読めない。

そんな雨女なわたしだけど、雨の音が好きだ。
しとしと降っているときも、ざぁざぁ降っているときも。空から落ちてきた水が、木々や葉や建物や地面や水面に当たって、はじけて、散って、それがあちらこちらで同時におこる音。

都会では周りの騒音で雨の音もかき消されてしまうけど、耳を澄まして、聴こうとすると雨の音が鳴っていたことに気付く。

これは幼い頃に気づいたのだけど、降り始めてしばらくすると、うっすらと道路に平たく水が溜まって、そこに新しく落ちてきた雨粒が跳ねて、まるでたくさんの白い蝶が羽ばたいて大移動しているように見える。(たぶん今まで他の人に言ったことないので、共感してくれる人いなさそう。)

ぜひ雨の時には、道端に現れる蝶々を見てほしい。

雨の楽しみ方を色々と考えてみて思ったのは、雨で濡れるのは最悪だけど、でも、きっとそこが海だったら、きっと心置きなく水に濡れることを楽しむと思う。

幼い頃のある夏の日、ひどい土砂降りだった。

そんな日に、なにを思ったのか、水着をきてゴーグルをして、「雨を泳いだ」ことがある。

大きな水溜りに飛び込んだわけではなくて、文字通り、降ってきた雨を浴びながら走り回った。

はしゃいで走り回って、まるで空中に大きな大きなプールができたと思った。風邪引くからやめなさい!っておばあちゃんの声が遠くから聞こえたけど、知らんぷりで走り回った。顔に、体に、容赦なく当たってくる大きな雨粒が心地良い。

もっと、もっと大きな雨粒が降ってくれば海になるのに!って空を見上げてみると、ゴーグル越しに雨粒がこっちに向かってくるのがスローモーションで見えて、なんだか深海にいるような、不思議な気持ちだった。

上を向いたまま口を開けると雨粒が少しだけ口の中に入って、味のしない雨を飲み込んだ。でも特別な飲み物のような感じがした。

ふと隣を見ると、その頃のわたしと同じくらいの背丈の庭の木が、葉や枝から雨水を滴らせていて、ああこの木も雨の日はこんなワクワクする気持ちだったのか、となぜか植物の気持ちがわかった気になった。

そんな気持ちを今さっき、異例の早さで梅雨入りした東京の空をぼんやりと見ながら思い出した。 早く梅雨入りしたからって、早く梅雨明けするわけではどうやらないらしい……なんて気まぐれなんだ。

もしかしたら、今のわたしにだって、
このしとしとと鬱陶しく降り続く雨を泳げるのかもしれない。

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