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早く、人間が人間らしく安寧に生きる為に #データサイエンス

振り返ると、あまり生きた心地がしなかった生がしばらく続いた。(今も若干残っているのだけど)

その時は、戸籍はあるから”生きていることになっているはず”なのに、生きているという実感がなかった。
もっとも、生きていて基本的に「生きていたくない≒生きている実感がない」だったのだと思う。

どちらも共通しているのは、生きていたかった自分が生きていられなくなる度に、強くそう感じてきたということだった。(重なった転校やいじめや、会社のチーム解散等)


人らしさ

この社会を視ていて、人が、人らしく生きられていない世の中だなぁと思う。

人らしく生きている人もいるなぁと思う一方で、決定的な失敗をして自分を失うと、その失敗を繰り返すまいと”人らしさ”が欠けてしまうのではと懸念する。

私の中の仮説として、
『人がもうやらなくても成り立つはずの過程を未だやっている状態であるから、人が人らしく生きる余裕が無いのでは?』
そんな風に思った。

どの会社も、馬鹿の一つ覚えのように”売り上げを上げること”が幸福につながると妄信している。
あくまで手段であって間違っても決して目的にはなり得ないもの(お金)を目的に掲げている。

売上を伸ばすことなんて、もはや人間の営みとは言えないと感じる。
その大部分は、もうロボットが代替えできる作業に思う。
なぜなら、規則性を見つけて最適解を出すことだから。

そういう”答え”の既にある作業は、もうこれから人がやらなくて済むようになっていくはず。
早く、答えのない未知を突き詰めようとする人がもっと増えたらいいのに、と思う。

けれど今の社会は、”人らしく生きること”への選択に関して、まだまだ、まだまだ自由を感じない。

それはきっと、もう背負う必要のない重荷を背負いながら現代人が生きているからだろうなど感じる。


人の要らないデータ解析ツール

来週、データサイエンスの講座を受ける予定がある。

今現在のデータサイエンティストという職が行う業務に欠かせないものに、”プログラミング”が挙げられるが、私が受ける予定の講座は、この”プログラミング”が必要のないツールを学ぶものだった。

私自身、プログラミングのような作業は根本的に向いていない気がしていた。
私の特性的にも”データを読み取り、活用すること”が向いていると踏んでいたので、それ以外でデータサイエンスを学ぶ手段を探していたら、ある時Facebookの広告に出てきた講座だった。

こういうツールが、人がもうやる必要のないことを無くして、人を人らしくしてくれるんじゃないかとせめてもの希望を持っている!

その技術自体、習得の必要がなくなれば、
「不要なマウンティングや人間同士の争いも無くなるのでは?」と微かな希望と仮説を抱いている。

もっと言うと、全人類がデータサイエンススキルを身につければ、「人は自分の意思で、自らの選択に責任を持って他責をせずに生きていけるのでは」と考えたり。

この仮説が現実になれば、その暁には「安寧な世になるのでは」と微かな希望を抱いています🙏🏻


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