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誰かにずっと言いたかった"真実"を言えて、涙した日

「あなたは、"オトナ"になってから人前で泣き、過去の綻びが解けたことはありますか。」

この問に、どのくらいの人がYESと答えるのだろう。

私の場合は、以前の私は"NO"と答えただろうが、今の私は"YES"と答えられる。

・・

ありのままの自分とは何なのか

「ありのままの自分でいたい。」とは誰しも願うことだと思う。
つい"ありのままの自分でいるということ"は、"人から受け入れてもらうこと"だと無意識のうちに認識してしまう。

しかし"ありのままの自分でいる"ということは、「いつ如何なる場面でも人に自分をさらけ出せる。」ということであり、"ありのままの自分を自分で受け入れること"ではないだろうか。

そしてそれは、自分が『人に見せたくない』と思うことですらも自己表現し、共有できる(許容される)ということが、"ありのままの自分でいられる"ということなのではないだろうか。

そんなことを考えて、この記事を書くに至りました。

誰にも語れなかった”真実”

私には、心の底からさらけ出すことを望んでいるのに、どうしても人にさらけ出せない”真実”があった。

この私の言う”真実”とは、『過去・現在の心の痛みを感じている、ありのままの自分の姿』のことであった。きっとこれは、"弱みをさらけ出すこと"と似ていると思う。

そして、私にとって”真実”を語れないということは、”ほんとうに苦しい気持ちを感じた経験がうまく消化できないこと”と同じだった。

しかし、親友にも、仲間にも、過去の恋人にも、どんな近しい人にも”真実”を語ることはなかった。(正しくは、できなかった。)

そして、ネット上での誹謗中傷や、日々報道される暗いニュースが起きる"差別や偏見に支配された目を持つ世間"において私は、「1番認めて欲しい弱い部分は出してはいけない。」と言われているように感じていた。

加えて、そんな弱い部分を持つのはあたかも世界で自分だけかのような感覚に陥っていた。

・・

信頼している友人なのに語れない”真実”があった自分と葛藤していた。

『一番つらい時に話せる人がいないと感じる私は、本当に友人を信頼できているのだろうか。親友と呼べるのか。
本当は、誰のことも信頼してないんじゃないか。』

と自己嫌悪のようなものを感じてしまい、しばし悩んだこともあった。

それは自分の中に残るモヤモヤしたわだかまりであり違和感となった。それが自分の中に存在する”真実”だった。

ほんとは、私は心の中では「”真実”を誰かに解って欲しい。」と願い続けていた。

noteや人に"真実"を明かしても、
決して"真実"とは成らず、
ただの"事実"となってしまった

"真実"を誰かに言いたかったから、noteにも全部書いて、実際に人に打ち明けたこともあった。しかし、それでは私の中の”真実”を伝えたことにならなかった。心のモヤモヤはなくならなかった。

しかし、いくらnoteに書いても、人に打ち明けても『過去・現在の心の痛みを感じている、ありのままの自分の姿』をさらけ出すことには繋がらなかった。

つまりそれは、”真実”ではなく、ただ”事実”にしかならなかったからだった。

"真実"を語れない自分に寄り添ってくれた歌

真実を語りたいのに、語れない自分の心にいつも寄り添ってくれた歌があった。

その時の私は、ひとりで涙を流して、ひとりで自分の"真実"を話せない自分と葛藤して、ひとりで落胆していた。

あなたが流した涙は
音もたてず零れ落ちてく
背中合わせでもいいから
強がりなあなたのすぐそばで

右へ行こうか左へ行こうか
どれが正しく誤りなのか
時が過ぎればわかるとしても
足を止めれば先を越される
その涙や 痛みはきっと
咲く花の糧になるから

あなたが望んだ明日が
音をたてて崩れ去っても
背中合わせでもいいから
強がりなあなたのすぐそばで

この曲には、とても救われたなぁと思い返したので、そのこともここに残しておきたくて書いた。

”真実”が人に伝わるということ

『"真実"が人に伝わるということ』は、
『過去・現在の心の痛みを感じている、ありのままの自分の姿をさらけ出せること』だった。

そして私は、今までに数回ほど自分の”真実”が人に僅かでも「伝わった!」と実感できた経験をすることができたことがあった。新鮮で、不思議な感覚だった。

それが、『誰かにずっと言いたかった自分の"真実"を言えて、涙した日』だった。

今までの自分にとって、"真実"とはひとりで抱えるもので、そうしなければならないものだと思って生きていた。

その"真実"(過去・現在の心の痛みを感じている、ありのままの自分の姿)は、たくさんの感じ損ねた感情によって埋もれて、埋もれてることさえもよくわからなくなっていた。

・傷ついたとき泣くことを許してもらえず一人で抱え込まないといけないと思っていた感情
・一人で抱え込むことを繰り返すと、いつしか感じなくなった感情
・転校して周囲の同級生が気持ちをわかってくれなくて吐き出せなかった感情
・自傷行為のようなことをしていた自責を続けていた感情
.....etc

抱えつつも『誰かに解って欲しい。』と願っていた”真実”が心から出た言葉で人に表現できたとき、自分の思考とは反して、自然と涙が零れ落ちた。

人の"真実"に触れたとき

私は幸運なことに、人の"真実"にも触れることができた。

ある人の口から"真実"が語られると、その人の"真実"が感情をベースに自分の中へ入ってきて、自分のことのように感じられた。
私は、その人と同じような感情を感じることができて、気付いたら泣いてしまっていた。

映画を観たときに感情移入している時と似ていたが、これは作品ではなくリアルだった。だから、映画よりもフルに五感を使って感じられて泣いてしまった。

その人の痛みの原因(弱み)である部分が、とても尊く思えて『それは辛かったよね。』と心の中で頷きながら涙した。

その人にとっての弱みを理解し、涙することができると、自然とその人の弱みに寄り添うことができた。

すると、自分の中の許すことができなかった一部(弱み)を許し、寄り添うことが簡単になっているように感じた。

この体験から私は、人の"真実"に触れられると、自分の"真実"に近づけるのだと、実際の体験を通して知ることができた。

ほんとうの人の"真実"に
触れることができた時間、
豊かさを感じる

誰しも、言えない過去や、傷ついた日々、願いが叶わなくて泣いた夜も、どれも皆あるはずだった。

皆、誰しもが傷ついているはずだった。
しかし、今日もネットでは誹謗中傷をしている人はいて、リアルでも誰かが誰かを傷つけたり、大切な人なのに傷つけ合っている。

しかし、私達が誰かを責めたり批判してしまうということは、自分自身を愛せていない証拠だった。

ニーチェ『隣人を自分自身と同じように愛するのもいいだろう。だが、何よりもまず自分自身を愛するものとなれ。』

「まず自分自身を愛さなければ、誰も愛せない。」とよく聞く言葉ではあると思う。

しかし、言葉で言うのは簡単だが、これを実際にできている人はどれくらいいるだろうか?

・・

そもそも他人の痛みを理解するには、まず自分の痛みを理解する必要があった
つまりそれは、自分の見たくない弱みと向き合うことだった。

しかし自分の弱みと向き合うのは、この上なく辛い。
だから、ほとんどの人がニーチェの言葉のように、"まず自分自身を愛する"ということができていないのだと思う。

・・

私はこう思う。

私が私の"真実"に近づけたとき、はじめてだれかの"真実"に近づける。
つまり...
『私が私の弱みに寄り添えたとき、はじめて、だれかの弱みに寄り添うことができる。』

だから、私たちは、まずは自分自身を愛する必要がある。

そんなことを学べた講座に出逢えたので、まとめとして残しておきたく、書き残しました。

最後に私が参加した講座のurlも貼っときます。

読んでくれてありがとう、ではまた!

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