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歌集を「読む」が「詠む」に通じたこと [日記と短歌]24,1,27


なにもかも再生される歌のなか君だけいないエラーに、風が/夏野ネコ


歌集に「正しい読み方」があるかどうかわかりませんが、本と言えば小説ばかり読んでいた私が歌集、という表現形態へ読みをアジャストしていくのは、これ、けっこう時間がかかりました。
読書といえば古典やSF、海外文学が好みということもあり、どちらかというと理屈っぽい文字の追い方をしていたのかもしれません。

なので同じ「本」というシルエットを持っているゆえに、歌集を読んでいくことがしんどかったように思います。自分は短歌つくるくせにね。
メディアのかたちと、同じ日本語であることに引っ張られ、歌集ならではの読み方がフィットしなかったのでしょう。
もうね、同じメディアと同じ言語、同じ創作文学でも小説と歌集では宇宙の構造からして根本的に違うんですよ。少なくとも私にはそう映りました。

そんなこともあり、今まで歌集自体を多く読む方ではなかったのですが、最近はぼちぼち読んでいます。ようやく自分なりの読み方を見つけたのだとしたら、これは嬉しい進歩です。

ヒントは木下龍也さんの著作の中にありました。歌人ふたりをインストールしろ、みたいなことを確か書いておられたのですが、あぁーもうかっこいいなー表現が、インストール。と要するにその方向でようやく能動的に「読む」ができるようになってきたっぽいのです。やっとかよ、やっとだな。ほんとに。

小説を読む時、いち読書としてその構造や話法を自分にインストールしようとは思いません。物語に身を任せて流れを下っていくように緩急を愉しみつつ、そこに自分を投影していくのが私なりの小説の読み方なのですが、歌集でそれがうまくいかなかったのは、私自身が「詠む側にいた」からなんだとハタと気づいたわけですよ。
思えば笑ってしまうくらい当たり前の気づきで、実際笑ってしまいました。構造の違いは立場の違いだったのか、そうか、そうなのか。あっははは。

具体的には歌を1首読んだら、文字として書かれていないけれどうっすら見える背景を類推し、それを自分の物語に当てながら自分なりの歌を詠みます。
またある1首から景の全てを取り除いたフレームのみ残し、全く異なる情景を代入しつつ自分なりの歌を詠んだりもします。

正しいかどうかはさておき、読むと詠むを表裏にした一種のパズルと言えばいいのか、「自分がそっち側に行く」小説の読みに対し歌集の読みは「歌を自分に引っ張り込む」ような感じです。

そのような試みが私なりのインストールなのですが、これがだからちっとも進まない。せいぜい1日10首くらいでしょうか。
なので歌集を読むようになった、と言っても相変わらず物量的にはちっとも進んでいないんですよね。困ったな、いや困ることでもないか。

ともあれ日々の楽しみが増えたのは喜ぶべきことです。短歌は楽しい。

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