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あっちの自分、こっちの自分、どっちも同じ自分(高校時代)

学生時代の話が中学で止まっていたのでそろそろ再開させようと思う。

中学から特別支援校に進みそれまで引っ込みがちだった自分が解放されて、大人に褒められたくて何でもがむしゃらに取り組んでいたので、なんとなく「デキる子」として高等部に迎え入れられた雰囲気があった。
それもそう、上級生にどんなタイプの病気の生徒が多かったのかを考えると(メンツも中学時代とほぼ変わらない訳で)3年間3年生をやるような状況にあったのは確か。
つまりおっかない先輩がいなかったので『自分イキッてるのかなー』という自覚はあったものの、そうせざるを得ない必然性があったのだ。
ただ、中学部の頃に見ていた高等部の先輩たちの文化祭などでの姿がカッコよくて憧れて『次は自分の番だぞ』みたいに思っていたけど、その域まではいけなかった気がする。
結局のところ良くも悪くも空気を読んでただただ大人たちが敷いたレールに沿ってそつなくこなしていただけだったように今になって思う。

当時"総合的な学習の時間"なる授業が導入された時期で、バリアフリー調査みたいなのを駅前でやって文化祭の題材にした1年生の時のそれが自分らでやった感が一番あった気がする。
2年3年生になると抜くことを覚え始めたというか、ネットで外部とコミュニケートする方が楽しくなり『こっちが本来の自分だしやりたいことはそこでやってる』みたいなベクトルに変わった感じがあた。
でも頼まれたら断れない(できない自分が許せない)今と変わらぬ性格で、与えられた課題には責任感を持って向き合っていたことで何だかんだ大人に信頼されているのを感じていた。
敷かれたレールと言うと語弊があるが、それはちゃんと生徒思いなもので、先生たちと(若めの先生はイジり倒すぐらいにして)たくさん話したことは今でも肥やしになっている。
ある意味ちょうどいいバランスでやれていたことに満足していたと思うが、今は『自分はこうしたい』ともっと攻めたことをしてもよかったかもなーというのはある(大人のせいにしてやらなかっただけ)

とある授業で日本人の筋ジス患者が自分で車を運転して、アメリカを縦断?横断?したというドキュメンタリーを観る機会があってすごいと思ったし、衝撃的だった。
こういう時って周りは『この人のように』と倣わせようとする節があるが、『人と同じことはしたくないし、自分なりのそれを見つけたい』と感想文にもっともらしく書いてやたら褒められた記憶がある。
高2の時にネットで繋がった友達に仙台のライブに行こうと誘われて「学校サボらせてくれ」だの、修学旅行の時に「ちょっと初対面の友達と会わせてくれ」だの言い出したことがあった。
この辺の行動は当時20年前にしてはわりと進んでいたことだったと思うし、『自分の世界を』みたいな片鱗がこの頃からあって、その成功体験が大きな自信に繋がった。
学校では大人の顔色を窺っていたけれどいずれはその空間を出て行く訳で、外の世界にそういったものを見出しておいたことはむしろ正しかったのかもしれない。

高3の時に修学旅行で飛行機に乗る為に人工呼吸器を使い始めた方がいいという話になって今いる病院に練習しに行ったり、臀部に褥瘡ができて座れる時間が限られたり、病気の進行を実感させられた。
母親の病気で自分が二週間ぐらい入院することになったり、3度目のライブ遠征のついでに見学に行った仙台のある施設の代表者に金言を授かったり、先々のことを漠然とイメージする機会は増えていた。
自分の体調のこともあり結局は進路を明確に決めることなく、同級生たちの動向を焦りながら眺めつつ卒業を迎えた。

頭では理解していたことを大人になって実際に色々と行動に移すまで時間を要すること(今もできていないこともある)になるのだが、この頃に培ったものがしっかり活きていくことになるし、悪くない3年間だったと思える。


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