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マイノリティという言葉がこわいの

母が体を悪くしてから、障害のある人たちのちからになれればと思うようになった。
先日、そのような願いが叶いそうなサイトの募集を見つけたので応募してみた。
よくよくきいてみると、取材をしないで書く記事だった。

取材ありきの仕事しかやらないわけではない。

だがマイノリティという言葉と、ネットの情報のみで書く記事、そのふたつの相性は私にとって恐怖でしかない。

そもそもマイノリティという言葉が怖い。言葉の中にいろいろな人の想いが凝縮されている気もするし、実体がつかみづらい。だがあつかいを誤ると人を傷つけてしまう。

第一、人間に優劣はないと思っていて、平等であると願っている(願っていると書いたのは現状そうではないと思うことがあるから。たとえば男性のほうが偉い的な昔ながらの考えかたとか)。

そうはいっても生きづらさを感じている人はいて、こうなったらいいな、こんなものがあると便利だな、こうしてもらえると助かるな、と感じているはずだ。それは私でも誰でも同じはずなんだけど、接する機会がないとなかなかどんなことに生きづらさを感じているのか分かりづらい。

だからこそ取材なしで検索だけで書くのは怖くて。そんな情報いらないよ、違うんだよ!ということになりそうで。もちろん生きづらさを感じている人たちと日頃から接している人なら、的確な情報を発信できるかもしれない。
でも私は母しかいない。

母だけの情報では乏しい気がしている。

だから取材が必要なんだ。

たとえそれが、プライベートだとしても仕事だとしても。

きっと何でも知ることから始まるんだ。


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