子供に勉強させる、ということについて考える
最近、勉強について考える。つまり、子供に勉強させるということについて。
というのも長男がようやく小学生になり、ついに勉強というものと対峙しなければならなくなったから。
それまでの長男は基本遊び呆けていた。
無論、周囲は入学に向けて、ひらがなやカタカナや足し算や引き算を事前習得しておくべく励んでいたというのに、我が家の長男は基本、保育園ではラキューに励んでいた。
我が家が特別、子供の学習について無関心なわけでもないのです。
手前味噌だが私は実はまあまあお勉強のできる子だったし、夫もじつは教育関係者だし。
別に無関心なわけでもなく、前向きに取り組んでくれるのであればそれに越したことはないし、できればそう願っていたのですが。
ただまぁ、本人にとんとその気がなかっただけってことです。
やる気のない子に勉強を強制する労力は半端ない
その気がない子に対しては親の働きかけが重要なのではないか、というのもちゃんと考えた。考えるには考えたが、現実問題としてとりあえず諦めた。
何しろ我が家の長男は強烈な子なのです。さりげない働きかけレベルでお勉強に取り組むわけもない。
保育園時代、彼にお勉強を強いるのであればとりあえず部屋に軟禁し、余計なものを全て撤去し、椅子に縛り付けた上で横に監視として立たなければ無理。
そこまでやっても、お勉強に取り組む時間は長くても15分というところ。しかもその後、お勉強ストレスで大荒れに荒れることも目に見えている。
全くアホらしくて強制できなかったというのが本音である。
頭は悪くはないが座学が苦手
ところでそんな長男だが、別に頭が悪いというわけでもなさそうである。
親の欲目の部分もあるかとは思いますが・・・物事の理解は早く、言葉も達者。
記憶力も悪くないし、あとなぜか教えてもいないのに年長の時点で繰り上がり繰り下がりの計算はできていた。
おそらく頭は悪くはない。ただ、圧倒的に座学が苦手である。
小学校に入学した以上、いままで逃げ回っていた椅子に座ってのお勉強、をついにしなくてはならなくなった長男はストレスで登校拒否にでもなるかと私は恐れていたが、意外と真面目に取り組んでいる。
どうやら、名前以外のひらがながまるで書けなかったのはクラスで1人だけだったらしい。
勉強はせず、ラキューに興じ、それでもなぜか自分は出来ると信じ込んでいた長男はその事実に衝撃を受け…めげて内にこもるかと思いきやあっさりと、文字は練習しないと書けるようにならないという事実を受け入れたらしい。
妙な自信にだけは溢れる彼は、自分ができないということにあまり気付かない。
でも座学は嫌いなので、最短のスピードと手間で文字を覚えるべく、奮闘しているらしい。
結局、頼りは子供のモチベーション
とりあえず彼を見ていて思うのは、彼のような我が強すぎるタイプに勉強を強制してもほとんど意味がないということと、結局は子供のモチベーション頼りなんだなということ。
残念…かどうかは微妙なところだが、勉強を親に褒められたいというモチベーションがなかった彼にとって、親の言葉はほぼ影響力がなく、彼をなんとか机に向かわせているのは、バカにされたくないという一点のみ。
親としての無力感と若干の淋しさにはかられながら、本日も、いびつな「四」を必要最低限だけ書いて満足している長男に、頑張ったね、以上は言わないよう、ぐっと耐え忍んでいます。
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