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文トレDAY50 18-激震

世界にはいろんなスポーツがある。
ウルトラマラソンと言うのがあって、100キロ以上走る過酷な競技がある。
私は、スポーツは大の苦手だが、この時の気持ちは、100キロ走り終えた時の走者はこんな感じだろう。と意味不明な爽快感に浸っていた。

まだ日は高かったが、「本日の仕事は終了」宣言。
畝川さんと浜友さんの食事誘われたが、疲れいるので断った。

お酒が飲める人なら、きっと昼間からビールを飲むとこなんだろうけど、私は年間のビール消費量はこの当時5リッター程度。家に帰って爆睡しようかと思ったが、アドレナリンが無駄に残っている。

72時間宣告をされる前から起きていたので、80時間ぐらい寝てないことになる。家に帰るといろいろ用事をしてしまうので、市内のちょっと高めのホテルに部屋をとってゆっくりそこで休むことにする。
無理にでも休まないと精神がどうにかなりそうだった。

午後5時にチェックイン、携帯電話で電源を切る、モーニングコールも頼まず、明日の朝11時のチェックアウトまで寝るぞ。
空腹だったが、食欲より今は睡眠の方が大事だ。
あいかわらず頭と目は冴えいているが、無理にでも目を閉じ休むことにする。

例の一件からオーナーから直接連絡がくるようになった。新しい店舗を上新庄につくる案件では、初期段階から計画を書いた、私とオーナーで決めたことを設計事務所が私に聞きくるという妙な展開になってきた。それで、次回会った時こんなことを伝えてほしいと言われる。直接言えばいいのに、めんどくさいことをするものだ。

2件目のショーハウスは私が書いた通りのプランですべてが進み、問題無く引き渡しが完了する。ただ、経営が苦しいのか、支払いを分割して欲しいと言ってきた、口約束はなんの法的効力ももたないので支払い日に落ちる外食チェーンの約束手形を分割する回数分発行してもらう。東京本社サイドもそれで納得した。


大災害が起こる前に鳥たちは事前にそれを避けるために移動すると言うのを聞いたことがある。人間にも、そのかけらのような本能が残っていて、大災害の前に気づくことがあるのかもしれない。

目が覚めた、午前5時40分ごろだった。こんな時間にいつもは目が覚めることはない。別室で寝ていた母も何故か起きてきた。
「おはよう」「おはよう」「あれ、早いね」
外から、ごぉぉおおおーーと大きな地響きのような音がした。本当の地響を聞いたことがなかったのでそれが本当に地響きの音だったのかどうかはわからないが、本能的に「やばい」と感じる音だった。
そのあとすぐ、床が揺れたというよりは、床が突き上げる感じだった。
キタ! 強い! 表に出るべきかどうか一瞬躊躇する。
動くことすらできず、そのまま、揺れが収まるのを待った。
堺市は震度5だった。
1995年1月17日 阪神・淡路大震災。
地震が起こるとほぼ反射的にテレビのスイッチを入れる。
神戸の上空がテレビに映し出されていた。
見慣れた神戸の姿はなかった。映画のシーンのように見えた。
えらいことになってしまった。
情報が集まりにくいのだろう、画像がまた最初から繰り返され始めた。
他のチャンネルも同じ映像が流れていた。

不謹慎と言われそうだが、私と東京本社の岡角さん以外の社員はみんなハワイに社員旅行中だった。岡角さんから電話がはいる。
無事であることを報告し、いまから会社に向かう旨を伝える。

電車が止まってた。

復旧するまでは自宅で待機するしかなった。繰り返し流される神戸の映像を見ながら冷めて固くなったトーストをかじる。

電車が復旧したので会社にむかう。
電車では梅田までしか行けなかった。淀川を渡る鉄橋の安全の確認が取れないため、阪急は動いてなかった。梅田からは徒歩で会社まで行く。十三にある会社に到着した。西中島南方の事務所が手狭になったので1年ほど前から十三に会社を移していたのだ。

会社は壊れてなかった。
想像してたよりは被害は酷くなかった。いきなり片付けるのはやめ、あちこちの状況の写真を撮る。日曜大工で組みたてた木製の棚は崩れ、あたりに本が散乱していた。図面ケースの大きな引き出しのほとんど引き出され、その重さで図面ケースごと倒れている。火の気、水周りの問題はなかった。自分の椅子に座り仕事をしようかと思ったが、気分が沈んでいた。帰るか・・・・。

ハワイでこの知らせを聞いた社員たちは一刻も早く帰国したかったので旅行代理店と交渉したが、パッケージツアーだったので、変更ではなく、新たにハワイー成田の航空券を正規ルートで買い求める必要があった。お金の問題でもないので、チケットを取ろうとするが、全ての日本行きの便は満席だった。

4日後、会社の片付けが済み、営業再開した。
尼崎の取引先自宅兼作業場が崩壊したが、命には影響はなかった。

よかった!命があれば、どうにでもなる。

が地震の影響は思わぬところからやってきた。

1ヶ月後、外食チェーンの発行した約束手形が罹災(りさい)手形扱いになり、現金化できなくなったのである。
「罹災(りさい)手形?なんやそれ?」
罹災した人の財産を守るためのものでこの手形が紙切れになる?
「そんな、アホな!」
本社は、江坂のはずなのだが、なぜ?
まだ、倒産したのなら諦めもつくのだが、お店は能天気に営業している。
「店の機材外しに行こうか」よからぬ発想が頭をかすめる。
はずしても売り先などつかないから金銭的なメリットは全くない。

オーナーに会って話を聞きたい。
気がつくと私は外食チェーンの本社の前に立っていた。









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