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1970年代に和製ブルーズは完成していた

やっぱり布谷文夫氏の「からのベッドのブルース」は名曲♪

欝屈したやるせなさ=ブルースフィーリングをブルースピアノのコード進行に合わせて日本語の歌詞に乗せて唸る。

1970年代のはじめに、既に“真正”和製ブルースは完成していた。

Joysound「からのベッドのブルース」歌詞検索サービスより

DEW LIVE - Fumio Nunoya & DEW (布谷文夫)

1971.08.07 at 3rd All Japan Folk Jamboree
Written and composed by Fumio Nunoya, except 4 by W. Dixon

00:00 - からのベッドのブルーズ
05:47 - 傷ついて
10:48 - 夏は終わり
16:57 - フーチークーチーマン
21:29 - 二人のブルーズ
25:35 - 僕の天使
32:20 - 悲しき願い

大瀧詠一氏が、1960年代後半に、故郷の岩手を後にして上京後に、最初期に出会ったミュージシャンが布谷文夫氏。

意気投合して同好会的なグループ「タブー」を結成するも、時期尚早だったのか、敢え無く解散。

その後、布谷氏は、グループ・サウンズ「オックス」の弟分バンド「ビッキーズ」を経て、1969年に、竹田和夫率いる「ブルース・クリエイション」の初代ヴォーカルを経た後、「DEW」として活動後に、いったん音楽業界から足を洗って、英会話教材を販売する会社に勤めるなどの紆余曲折を経て、1970年代中盤に、勇躍大瀧詠一氏が主宰するナイアガラ・レーベルから、「ナイアガラ音頭」で再デビューを図ったのでしたね。


大瀧詠一氏がDJを務めた
「Go!Go!Niagara〜布谷文夫ストーリー #1 /2」
1.7万 回視聴

趣味の音楽だけを掛けまくる50分番組の前半より。

最後に、レコード版の「からのベッドのブルース」がオン・エアされましたね。

当時からマニアックな人気を誇った幻の楽曲だったようで、番組にも、「からのベッドのブルース」を賭けて欲しい会が結成されていて、リクエストに応えるというスタイルでしたね。

当時、リアルタイムでこの放送番組を聴いていたのは、大変貴重な体験でした。

ラジオ関東、現・ラジオ日本の月曜日深夜放送を、カセットテープレコーダーで録音して、大学浪人生でお金が無かったので、120分や180分テープに、ソニー製の英会話学習用のLL方式で、一本のテープをA面L+R×B面L+R=4分割して録音すると、4回分の番組を録音できるので、それを何回も何回も再生してリピート学習に励んだものです。

しかし、受験勉強には、この学習法、全然活用していなかったですね^^;

なお、布谷氏は大瀧氏の1歳年上で、大瀧氏が2013年の年末に亡くなる1年前に、やはり亡くなっております。

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