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【短編】成層圏で暮らしている

僕は、成層圏で暮らしている。

 成層圏とは、地球からおおよそ10km上空へのぼった時にあらわれる大気の層だ。だいたい、海外へ行く飛行機が飛ぶギリギリのところ。戦闘機だと、もっと高高度を飛行するらしい。

 ここからは、地球が青白くひかって見える。昼間は海や山の照り返しが強く、薄汚れた巨大なジオラマを見下ろしているような感覚だが、夜の景色はほんとうに美しい。眼下で輝く都市の生活光は、まるで銀河のように密集して、ぽつりぽつりと地球の表面を照らしだしている。とはいえ、僕も銀河の全容を直接見たことはないけれど。
 
 もちろんここは、人間が生存できるような場所ではない。雲がなくなる成層圏の境目あたりでは、地上に比べて空気の濃さは約100分の1、気圧は約10分の1だ。エベレストなどの山頂部だと、体温とおなじくらいの温度でも水が沸騰する。そこよりも高い位置にある成層圏では、当然ながら、人間の体液も蒸発してしまうだろう。

 なぜ僕が成層圏で暮らしていて、丸みをおびた地球の輪郭を眺められるのか。それは、僕の妻が成層圏で死んだことに起因している。
 
 僕の妻は旅客機の客室乗務員だった。何よりも空が好きで、世界中を飛びまわっていた。年の割にシミが増えてきたのは、機内で普通の人よりも紫外線を多く浴びているからだと、誇らしそうに笑っていた。

 飛行機事故で死亡する確率は、交通事故に遭うより低いとされている。妻は僕の両親に結婚の報告をしに行った時、そう話していたし、僕も信じていた。
 
「『成層圏になくセミ』っていう漫画があってね」そう、妻が話していたことがある。
 松本零士が描いた、戦争をもとにした漫画だそうだが、僕は聞いたことがなかった。大戦時、ドイツの戦闘機に乗る若いパイロットが、被弾して墜落する時にセミの鳴き声を耳にする。セミの声が聞こえるほど低い場所を飛んでいるのかと思ったら、いつの間にかセミが戦闘機へしがみついて鳴いていたのだ。
 妻の解説によると、短いセミの命と戦闘機乗りのはかない命が調和し、戦争の無念さが際立っていて好きなのだと、よく言っていた。
 
 まさかほんとうに、空で死んでしまうなんて。
 
 滅多に起きないと言われた飛行機事故。妻の乗った旅客機は、何らかのトラブルにより、対流圏と成層圏の界面付近で空中分解した。乗員はすべて死亡し、僕のもとに戻ってきたのは、墜落した妻の遺体だけだった。

 妻を失ってから、僕の心はいつも地面にへばりついているようだ。何を見ても、触っても、大地から意識が離れていかない。軽いという心地を、ずっと味わっていない。身体に重りがついているみたいだった。そして僕は、あることを思いついた。

 妻が幽霊になるのなら、きっと成層圏にいるだろう。
「この世でいちばん綺麗で、いちばん静かで、私の魂があるところ」
 妻は成層圏のことをそう言っていた。

 僕は、気球を飛ばして宇宙から見た地球を撮影しているプロジェクトに参加した。そうして今も、高度約40キロからの映像をVRにして、起きている時も寝ている時も24時間、成層圏の中で過ごしている。

 成層圏では、あまり風の音はしない。雲もない。夜は地上や月の光が強く、星もよく見えないし、見えても地上のようにきらきらと瞬かない。清浄で、静謐で、心が洗われる空間だ。

 ここで暮らしていると、すぐ近くに妻がいて、僕を見つめていてくれるような気持ちになる。その時だけ、全身にのしかかる途方もない重さがやわらぐ。地面から離れられない僕が握る妻の手はつめたくて、ミイラのようにしなびているけれど。

視界を埋める、暗やみに融けた藍色。視線を上へ向けると、まるで深海に向けて進んでいくように思える。ほんとうは宇宙へ沈んでいっているのかもしれない、そんな幻想を抱く。

 妻の幽霊を探しながら、僕は今日も成層圏で暮らしている。

 

目的:成層圏から撮影した地球の景色を見たくなる

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