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オンラインゲーム

唯一無二の親友がいる。

数年単位で連絡が途絶えることもあるが、気まぐれなタイミングで酒を飲んだり、車で遠出することもある。

昨日、彼からあるオンラインゲームを始めるとメッセージが届いた。「あ、そう。がんばって」と流しても良かったが、私もそのゲームをダウンロードしてプレイしてみた。

まるっきり気持ちが乗っていなかったので、面白くはなかったが、「あいつとプレイできるなら」というモチベーションがコントローラーを長い時間握らせた。

オンラインゲームにはそういうところがあって、ゲーム単体で見れば大して面白くはなくとも、誰かと繋がっている感覚だけで何時間もプレイできるということがある。

よく考えれば、トランプを用いるゲームも大抵そうだろう。ババ抜きも七並べも神経衰弱も、仮に“ソロプレイ”だとしたら、ああも夢中にはなれない。

いやもっと考えれば、仕事も食事も掃除も洗濯も、生活そのものの大半がそうだ。大して面白くもないが、誰かとそれを共有しているというだけで、妙に継続できるから不思議なものだ。

もはやこの傾向は、人生すべて、と置き換えられるかもしれない。この人生に“完全ソロプレイ”に耐えられるコンテンツや営みはどれだけあるだろう?

「レディ・プレイヤー1」という映画がある。

人類全体が行き詰まって、多くの人々がオンラインゲーム内で自己実現や承認欲求を満たしている世界を描いた映画だった。

導入から中盤くらいまでは面白かった。結局、リアルの人間関係が世界を救うというオチに向かっていったあたりで興味が薄れていったが、スピルバーグではなく、もっと理屈っぽく悲観主義的な監督だったら、より味わい深いエンディングもあり得たような気がして、多少残念な気持ちが残った。

自身の人生を振り返ると、たった“今”が最も己が心地良い濃度で世界と繋がれている気がしている。ゲームやネットがそれを可能にしている。世界や世間との距離感を、これほどまでに自分好みな塩梅で制御できる時代や環境もないだろう。

誰かと繋がっていることに疲れたらログアウトすればいいだけの世界。

それを味気ないとか、人として何かが失われていると抵抗感を覚えるのは心情として理解できるが、もし彼の国のように1発でも原子力発電所にミサイルを撃たれれば瓦解する世界でもある。

ここは先人が創り上げた平和に感謝して、これを維持するためのモチベーションの1つにしてもいいのではないか。

つくづくこんな良い国と時代はない。そんな自らの幸運に心から感謝するし、それに見放された人々には救済の手を差し伸べるべきだろうとも思う。

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