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屈折した世界線の春

気付いたら春だった。

4月から環境が変わり、毎日細々とながら忙しく仕事をしている。
久々に接客業をしているのだが、あんなにあらゆるメディアで声高々に訴えられているはずのソーシャルディスタンスが存在しない世界に辿りついてしまったらしい。

レジに並ぶ人、人、人。買い物カゴ一個分すらない距離感。「密です」と突っ込まれたいんですか?言いたい。あるある言いたい。
金銭をトレイでやり取りすることになっているのに、『となりのトトロ』でカンタが傘を差し出すシーンのごとく圧をかけて無言で手を差し出す人。それを押し切るようにトレイの上に置かれたおつりを手のひらで指し示す私。そんな瞬間的にちゃっちい勝負をしたいんじゃない。なるべく穏便にいきましょうよ。
そして指を舐めてお札を数える人々。あーっお客様、このご時世それはやめていただけるようお願いいたします。口に着けたそのマスクの意味はなんですか。

これだけ「自粛」やら「STAY HOME」が叫ばれているのに、それらがまるで上辺のように虚しく響き渡るこの空間。とはいえお客さんの中には生活が掛かっている人だっているから強く言えない。何がなんでもコロナにかかってはいけない事情があるので毎日命懸けなのだけど、きっとこちら側の私情などお客さんは知ったこっちゃないだろうなあと半ば諦めながら仕事をしている。それでも働けるだけ、仕事があるだけありがたい。

本当は初夏頃より京都で少しの間仕事をすることになっていたが、この状況な故延期せざるを得なくなってしまった。幸いにも延期という形を取らせてくださったものの、先の見えないこの世の中、延期が白紙になる可能性を常にはらんでいる。

良くも悪くも9年前の震災で免疫が付いてしまった。
あの頃はまだ学生で、ピンポイントで被災者になってしまったから動けないことがほとんどで歯痒い思いを数えきれないほどした。状況は近くて異なるけど、あの時のスキルや経験が活きているのか「動けないなら○○やっておくか」とか先を見越して「早めに判断しておいた方がいいな」とか動けない状況の中で割と動けている方だと思う。都市部と地方でその影響は比べることはあまり当てにならないかもしれないし、元々どちらかというと基本インドア派だったから、今のところは幸いなことになんとかやっていけている。そもそも近くに友達が居ない私は否が応でもコロナの前から地理的にソーシャルディスタンスだった。

しかしながら各地に点在する自分の好きな、自分を育ててくれた場所や人が危機に瀕しているのはとても悔しくて歯痒い。どうしようもできない現実がしんどい。私の力ではなんともすることができない。無力だ。私にできることって何?

夜になると押し寄せる不安が視界を曇らせた。
免疫が付いたとはいえ、しんどいものはしんどい。どこか殺伐としていて、こんなに静かに暗い春は震災直後を重ねてしまう。冬にかけて毎月のように通い、フィルム写真に収めた東京の景色も、その先々で会った友達との思い出もまるで遠い夢のよう。こんな状況で未来なんて、と呟きかけて思いとどまった。あの頃、同じことを呟いた先の未来を今生きているのは紛れもない事実だったから。

いつ収束するのか見えない状況。''アフターコロナ''というより''ウィズコロナ''になってしまう可能性だってある。引きこもりでもやりたいこと・やるべきことは山ほどあって、コロナが落ち着いた後、それらをやり尽くした自分の姿を想像してみる。一抹の希望は、今はそれしかない。頑張るとエンストしてしまうから、出来るだけ持続できるペースで。そういえば「人生はマラソンだ」と友達が言ってたっけ。

世界が再び動き出す時に、自分の周りにいる大切な人達の力になりたいと強く思った。そうなれるように、その力を蓄える為に、明日も私は私のすべてを使って生きることにする。

次の春が来る頃には、新しい私でドキドキしていたい。

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