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翻訳機があればいいのに

去り際、嫌味を言われたような気がした。

今の仕事は接客業で、毎日毎日レジを打っている。
コロナの影響は少なからず出ているものの、連日店は沢山のお客さんで賑わっていて忙しい。しかしこちら側もコロナにかかるまいと命懸けなので、マスクは必須、ゴム手袋着用、金銭はトレイのやり取りと様々な対策を講じている日々である。
このご時世、理解してくれる人もいるけれどすべてがすべてそうじゃない。意図を知ってか知らずか、上から垂らしたビニールシートの仕切りを暖簾のようにめくってこちら側を覗き込まれた日には心臓をぎゅっと掴まれたようで冷や汗が出そうになった。

そして冒頭の一言に戻る。
去り際のたった3秒、マスクの下の口はどう動いていたか見えなかったけれど、苦笑するように目尻が下がり何かをこちらに呟いた。
嫌味を言われたような気がしたのは感覚的な話で、愚痴かもわからない。しかし、何を言っているかわからなかったのは相手の訛りがきついせいだった。
良くも悪くもその訛りが理解できないわたしの受けたダメージは通常の2割程にも満たずに済んだ。

仕事を終えた帰路の途中、ぼんやり考える。
あの3秒間、わたしは地元で仕事をしていたはずなのに地元の言葉がわからなかった。
大袈裟に例えると言葉の通じない国に来たばかりで、耳にする言葉すべてが記号に聞こえるように。
あれ、わたしどこで生まれて育ったんだっけ。

地方といえど、実は訛りは細分化されている。
川を挟んで訛り方が違うとか、海の方だと荒っぽくて同じ地元の人でも理解できないとか様々で、その最たる例であった通っていた高校は立地的にも内陸・海側・比較的中心地から生徒が満遍なく集まり、電車通学の生徒も多いことからたちまち訛りの坩堝と化した。
わたしといえば訛りの強い海側の親戚が多かったものの語彙的にはそれほど影響を受けず、強いて言えばイントネーションの方の訛りがある。幼少期に語彙的に訛りかけたこともあるけど親に指摘され意識して直したから結果そうなった気もするけども。
それ故、地元で生まれ育ったのに訛りのことは理解しているようでよくわからないままだった。思い返せば親戚の集まりもなんとなく笑ってやり過ごしていた。

そりゃあ正しい言葉で、正しいイントネーションで話すことで日常生活に支障をきたす場面は少なくなるとは思う。理解できなければ会話は成立しないし。
その反面、訛りがアイデンティティーの代表として表されることもある。故郷への愛だとか、自分が生まれ育った環境そのものを表すだとか。
文化的な面を見れば、若い人達が使わないことで訛りはいずれ消滅してしまう危機があることで、絶やさないように守るべきという意見もある。それはわかる。けれど今回それは一旦傍に置かせてほしい。

一時期"方言女子''や"方言男子''が流行ったと思うけど、お世辞にもこっちの訛りは可愛いと思えなかった。「だっちゃ」と言って許されるのは『うる星やつら』のラムちゃんくらいだと思う。同年代の訛りを耳にするたびにみぞおちがうっとなるのは中学の頃、スクールカーストに蔓延っていたマイルドヤンキーのせいか。

関西弁を筆頭に市民権を得られている方言は正直ちょっと羨ましい。
今更訛りを身につけようとは思わないけど、少しは理解した方が良いのかなと思う。
けれど本当に羨ましいのは多様な言葉が受け入れられている環境なのかもしれない。それが俗に言う東京という場所で。

地元なのに、言葉はいつも宙ぶらりんだ。
生まれ育った街なのに、街の言葉を話せない。移住してきたならまだわかるけれど、いつまでもどこか疎外感を感じているのは、馴染めないのは、わたしは自分の地元の言葉がわからないままだからか。あぁ、やっと気づいた。

どうか許してほしいと思いながら、それでも受け入れられる居場所を探し続けている。
都合の良い話だとわかってはいるけれど。
今のところ、語彙もイントネーションも関係ないSNSが自分にとって居心地の良い場所なのかもしれない。

訛りを理解できる翻訳機があればいいのに。


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