私の課題


ネガティブな時の瞬発力が失われ萎縮すること。

これは、小さい頃のネガティブなことは言いません、という躾に由来する。
私は躾や言葉を受け取りすぎ、真面目すぎな性格を持つ。

ポイント:無価値観は後付け
    全体的に躾や言葉を重く受け止めすぎ

ディベート

私は女子校時代、ディベート的なあれこれが不足していた。
小学校ではよくディベートをしていた。
当然のスタンスは意見が対立してもそれは意見や考えが対立しているだけで、本人達や人格を否定するわけではない。

“こんな当たり前”がいつの間にか理解できなくなっていた。

私の中で、”人と関わること”を重く真面目に受け止めすぎていたことがある。
責任感じすぎ。

2つのエピソードをあげたい。

カラオケ

1つは、カラオケの話。
カラオケによく行く話をしたとき、自分が上手く歌えないのも下手な人のを聞くのもあんま好きじゃない話をした。
すると、本質は歌うことで曝け出し合う友情であり、上手い下手ではないよ真面目すぎるとのこと。

人と関わること、は嫌いながら必要だという話のは小さい頃から何度もされてきたし、ひとりっ子は我儘になりがちだから特に頑張らねばというのも感じてきた。
そして身勝手な人をみては苛立ちつつも、集団では誰かが我慢すべきというのも感じてきた。

多分これらは受け止めすぎ。

東西差

もう1つのエピソードは日本の東西に関わる。
ランチの時ふとこんな話をした。

関東より関西の方がハイコンテクストというか濁す文化だと言う。
東京は色々なところから人が来るからはっきり言わないと分からない反面、関西は脈々と同じ場所の付き合いがあるから、それにひびが入らぬよう濁して言う。
この感覚に違いがある。
私からしたら目から鱗だった。

両親が西の私からしたら、先々の関係を考えて濁すのは当たり前。遜るのも当たり前。
けれど、これは世の当たり前ではないんだ!そして私は関東にしか住んでいないので、抱いてきて悩んできた人付き合いの違和感はこれか!となった。
確かに関西人の方が関わりやすくよく懐いていた。

無価値観は後天的

ところで、”無価値観は後天的にレッテル貼りされた”ものとどこかで見た。

ではどこででしょう…?
家庭、親戚付き合い、兄弟格差、学校、習い事、などなど可能性は色々ある。

私なら根源は塾だと思う。

強みに、最上位層の最下位にいたから驕らないこと、とあるが、反対に弱みでもある。
そのコミュニティコミュニティでは無価値観を感じていたし、謙りが当たり前の私からしたら、東の人に言いくるめられたことも何でもあった。

未来志向、な現代、逆張り的に遡って根源を探すのも私は大いにありだと思う。
要は特定が本質でダラダラ語らないことが肝だと感じている。
先日から書いている皮膚科治療でも、原因がわからないと対策しようがないと言われた。
アレルゲンはこれ、と特定するのが肝で、アレルゲンについてあれこれ書くのではない。

呑みの席で

ところで、呑みの席でこんな話をした。
好きなタイプは?ときかれた。(よくある話だが)
今までの答えは違和感ない人ですかねだったが

今自己分析した後は”言葉を大切にする人”だと思う。

言ってみればただの雑談だが、自己分析しないとピントずれな本望でない話をぼんやり答えることになる。
今まで違和感を感じてきた大半はこれだとおもうし、東西で感覚の差あれど、個々の人の心掛けでなんとかなる部分だとも思う。

普通の呪縛

大学の時、カウンセリングセンターで普通に拘り、”普通”になりたい人が多いという話を聞いた。
しかし、普通は定義不能なため、いたちごっこである。

以下ノートにもあるように時代的に他人の綺麗な部分が見やすい。だから芝生が青々と見えるのだ。
https://note.com/lulu_re_love/n/nd32c54ad4df9

これもまた、真面目に受け取りすぎな話の一つだと思う。
普通や一般的、を過度に気にする。

わたしも、1人で行くのが好きだけど、普通は違うよね、とかややずれてるとか、普通に囚われていた。
今でこそ多少時代的に寛容だが、ちょっと前はより苦しくもあった。

私が嫌いなこと

私が好きでないのはまた日常的に顔を合わせる(今いない)人の悪口を周りの人がいる前で過度にするケース。
理由は、人と何かやる以上不満が出るのは当たり前だから。誰かは我慢する必要がある。
嫌なら個人事業主になればいい話。

そういう人に厳しく接していたし、今でも嫌いな点。
これも雰囲気には欠かせないが言葉を大切にしているからの1つだ。

本質だけど

私は全体的に人と関わることそのものとその必要性を重く受け止めすぎていた。

小さい頃からあまり友人と遊ばない私に、お友達とも遊びなと言っていた周り、
関わりは絶えないからと無理やり続けた部活、お金のために割り切ったバイト、
人嫌いな割にかなり頑張って人と関わった。

人との関わりに関していえば本質はもうお休みだと思う。
もう十分頑張ったと自分に言いたい。

確かに欠かせない反面、誰かが我慢するとか、確かにそうであるが、本質に日常的に触れる必要はないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?