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生きる理由を少しだけみつけて


このエッセイに共感した。

なんとなく生まれてしまったわたしたちは、なんとなく生きていくしかない。人の命は尊いものだと言われても、全然ピンとこない。(他人の命を軽視しているわけではないが)自分の命の尊いポイントが全くわからないからだ。
産んでくれた親に失礼と言われるかもしれないけれど、親や家族に全身全霊で感謝して、友人を愛して、仕事に生きがいを見いだせるような健康的な精神の人間ばかりでは、残念ながらないだろう。
わたし自身、生きる理由はまだ明確には見つかっていないのかもしれない。いつか見つかるのかもわからない。でもとりあえず、死なない理由を積み重ねることで、どうにかしばらくは、きっとこの世の中にだらしなく居座るのだ。

今回、うつ病で3度目の休職を終え、体調がマシな日には4時間ほど働き、その後は疲れて妻が帰ってくるまで仮眠を摂る。そんな生活が続いている。

僕は10代後半は建築に熱中し、20代前半はビジネスに熱中し、野心を滾らせ生きていた。しかし、無理が祟ってか、うつ病になったのだ。

それから、そろそろ10年経過し、その間、寛解を願っては、治療に励み、自分にできる「寛解に向けて良さそうなこと」には取り組んできたつもりだ。

食生活の改善、生活リズムの改善、運動、漢方、投薬治療、瞑想、運動、マインドフルネス。

しかし、どれも未だ効果という効果を感じることができないまま、1日を終え、あまり望まない明日という日を迎える。

正直、今心身ともに疲れ切っている。将来に明るい希望なんてものはなく、積極的に生きる理由なんて、無い。

ただ、死ぬということを考えると、残される妻が悲しむのは想像するに容易いし、それはどうしても避けたいことだから、なんとか日々を乗り切ろうと必至に生きている。

というのが、ここ最近の実際だろう。

数少ない友達からお茶に誘われて、空白だらけのカレンダーに予定が入る。それだけでも、真っ暗な未来に少しだけ明かりが灯るような気がするのだ。

楽しいことをしよう、目標を持とう、スキルを身に着けよう。しっかりと内省しよう、日記を書こう、運動しよう。

世にあふれる「こうすれば良いよ」という情報や、直接僕に向けられる言葉に、僕は疲れ果て、そろそろ静かな世界に行きたいな。と心を支配しては、カレンダーに穿たれた白い点を頼りに、死なないことを選ぶのだ。

年々、生きやすくなっている、という人に会うたびに、嫉妬に似た感情を頂き、それは自分自身がどうしようもない息苦しさを抱え、生に対して半ば諦めの感情を持ちながらも、どこかで自分もそう言ってみたい。という願いがあいまって、苦しい。

今はとりあえず、真っ暗なカレンダーに、どんなに小さくても白いを穿つことで、この命を引き伸ばし、いつしかそれが、僕の中で希望という名の光になってくれることを願ってやまない。


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