見出し画像

【法廷遊戯】感想前編:原作から映画への昇華がすごかった

とうとう公開された!「法廷遊戯」。

推しの主演映画というのは(映画に限らず演技のお仕事というのは)、すごく評価が難しい。
純粋な「作品」とその中での「役者」としての評価の他に、どうしても「推しが頑張っている」という、我が子の成長を見守る親のような感情が乗ってしまうから。

私は永瀬廉くんのファンだけど、そもそも映画が大好きだ。
週に1~2本は映画を観るくらいの、人より少し観る量が多いかなくらいの映画好きではある。
映画好きとして推し贔屓の評価をしてしまうのは避けたい。そう思うあまりに必要以上に厳しい目で見てしまっている気もする。難しい。

それでも、この映画は純粋に面白いと思えたし、俳優・永瀬廉の大切な作品となることは間違いないので、前編と後編に分けて感じたことを残しておきたい。

前編では原作のネタバレをかなり含むので、これから原作を読む予定の方は避けてください。逆に読む予定がない方には理解の手助けになるかも。

永瀬廉と久我清義

私が廉くんのことを初めて認識したきっかけは、彼の演技だった。
俺のスカート、どこ行った?」での彼の死んだ目とすべてを諦めたような佇まい、それでもその中にある人間らしさ、そして少年と大人の狭間で大人ぶるような落ち着いたトーンの声。

「何かを背負って何かを諦め、苦しいのに平気なふりをして生きる人間」を、なんて上手に演じるんだろうと思った。
明智秀一は、今でも私の心の中に強く強く残っている。

「法定遊戯」の映画化が発表されたあと、文庫版が発売されてすぐに原作を読んだ。
※映画を観たあとに原作を読むのが無理なタイプなので先に読みました。可能なら「映画→原作→映画」で楽しむのが一番だと思います。

読んで確信した。久我清義、永瀬廉じゃん。
もう読んでいる段階から、頭の中で清義=永瀬廉で映像化されていた。
まただ。また、「何かを背負っている」やつだ。

ストーリー自体も面白かった。原作者の五十嵐律人、デビュー作。
ちょっと設定が甘い箇所も多く全体としては冗長に感じる、デビュー作らしい荒削り感がある一冊だったけど、話の本筋や題材は面白くて一気に読み終わることができた。
法律用語や登場人物が複雑に絡まり合うので、どのように映像化するのか楽しみだった。

わくわくしながら待っていたら、主題歌をKing & Prince「愛し生きること」が担うことが発表された。
原作を読んでいたので、この曲があまりにもストーリーにぴったりの、それでいて全てを包み込んでくれる救いの歌になると強く感じた。


初見の感想

10/3、完成披露試写会で一足先に観ることができた。そのときの感想は以下にて。

一言でいえば、「エンタメ作品としての映画化として最上の出来」だと思った。

情報量を必要最低限まで削ぎ落としつつ大事なところはしっかり残し、多くの層が集中力を保って観続けることができる90~100分の枠に本当に上手に収められていた。
重すぎず軽すぎず、それでいて観終わったあとに余韻が残るラスト。
大満足だった。

その後公開3日目までに試写含め計7回鑑賞し、原作との差分や映画ならではの演出など更に深く考えることができた。
私は監督やプロデューサーはじめ、製作陣が映画で表現したかったことや意図について考えるのが大好きなので、その視点での感想含め改めて書き残しておきたい。


原作との差分

深川監督が、「小説とは別物として考えてほしい」と言っていた。
その通りで、この映画は原作の大事なところを軸にしたエンタメ作品としての要素が強い。(これで大正解だと思ってる)

全体的に原作とはかなり異なるので細かくすべて記すことはしないが、97分にまとめるための脚本・構成が素晴らしかったと思っているので、特に重要だと思う箇所について書いておく。

登場人物

まず大きく異なるのが、登場人物の少なさ。
映画化にあたって、清義・美鈴・馨の3人の視点に絞ることにしたと監督が言っていたが、これは映像の意味でもあり、ストーリーの意味でもあると思う。
特に原作で非常に重要なキャラクターであった下記3人が映画には存在していない。

①佐倉 咲(サクラ サキ)
清義の弁護士事務所で事務員として働く女の子。痴漢詐欺をしていたところを清義に見つかったのがきっかけ。清義は「サク」と呼んでいる。
②トオル
清義と美鈴と同じ施設にいた年下の男の子。美鈴の異変に最初に気づいたのはトオルであり、清義と一緒に美鈴を助ける計画を実行。
③権田聡志(ゴンダ サトシ)
墓地で暮らすホームレス。清義が墓荒らし(窃盗)の弁護を担当。

いずれの人物も物語に人間らしい暖かさをもたらしている要素が強く、清義や美鈴の心の動きへの納得感を深めてくれる。
特に権田の話はストーリー上とても重要なので、ここを削ぎ落としたのはずいぶん思い切ったなと思った。

さらに言えば、映画で大森南朋が演じる沼田は、原作では沼田ではなく「なんでも屋の佐沼」というホームレスのキャラクターだ。
と権が深く関係しあうので、映画ではおそらく「沼田」にこの2人のキャラクターの役割を担わせたのだろう。

※超余談※
映画では清義は下宿先に「フィオーレ法律事務所」を構えている設定だが、原作ではビルの地下の一室を借りて「ジラソーレ法律事務所」を立ち上げている。ジラソーレはイタリア語で「向日葵」なので、キンプリ担としては更に胸熱だった(笑)。変更後の「フィオーレ」は「花」。原作ではサクが事務所で向日葵を育てていたけどそれがないこともあり、リンドウとも通ずる「花」に変更したのかな。


無辜ゲームのルールと馨の信念

物語の大切な核となる無辜ゲーム。
馨が開始し審判を務めるものだが、これも映画では簡単なものに再構成されている。

無辜ゲームには加害者と告訴者が存在する。
加害者が満たすべきルールは2つあり、それが「刑事法規に反する罪を犯す」そして「サインとして天秤を残す」というものだ。

特に後者の天秤について、映画でも天秤のモチーフは使用されていたがそれが示す意味については特に触れられていなかったし、おそらくそこまでの意味を持たせない構成に変更している。

つまり、無辜ゲームは告訴者起点で開始されるのではなく加害者によるいわば挑戦状のようなものが起点で開始される。そういう意味で、原作ではさらにゲーム色が強いものになっている。
挑戦を受けて、告訴するかどうかは本人次第だ。

そして、清義がこのゲームを受けた理由も、自分を守るためではない。
暴露された記事に美鈴の顔も写っていた(まだ誰もそれが美鈴とは気づいていない)ことから、加害者が暴露した目的が不明な以上このままにしておくと美鈴にも被害が及ぶ可能性があると判断したからであり、ここでも正義の「美鈴を守る」という強い意志が感じられる。

そしてもう一つ、無辜ゲームの罰について。

ゲームでの罰の内容がどのように決定されるか、映画では言及されていなかったが、ここにも馨の信念である「同害報復」が適用されている。

清義が過去の暴露で藤方賢二を告訴したゲームでは、「名誉毀損」の罪が適用される。
ここでの同害報復とはつまり、「同程度まで社会的信用が低下する罰」を与えることが許されるということとなり、具体的には「自己の社会的地位を保持する権利を二十四時間主張できなくなる」という罰を、馨が藤方に宣告した。

また、馨は審判者としての「無辜」に対する想いも強く持っている。
そのエピソードとして、原作では馨による以下のような発言がある。

僕の前に十人の被告人がいるとしよう。被告人のうち、九人が殺人犯で一人が無辜であることは明らからしい。九人は、直ちに死刑に処せられるべき罪人だ。でも、誰が無辜なのかは最後までわからなかった。十人に死刑を宣告するのか、十人に無罪を宣告するのか――。審判者には、その判断が求められる。殺人鬼を社会に戻せば、多くの被害者が生まれてしまうかもしれない。だけど僕は、迷わずに無罪を宣告する。一人の無辜を救済するために。

五十嵐律人「法廷遊戯」

これらの無辜ゲームに関するエピソードには馨の信念が強く反映されており、とても印象深いものだった。
「裁判ゲーム」でもいいのに「無辜ゲーム」と名付けているのは、やはり馨の「無辜の救済」の想いが強いからだと考えられる。


馨が仕組んだ範囲

映画では、結局馨がどこからどこまで関わっていたのかが少し曖昧かつ簡素になっている。

結論からいえば、「すべて」だ。

映画以上に、原作では馨が全てを掌握しており、馨に仕組まれたゲーム感が強い。
映画で省略されている話で印象に残っている話を一つ書いておきたい。

序盤の無辜ゲームのあと、美鈴の住む部屋にアイスピックが突き立てられた事件がある。

犯人を特定するために、清義はこの事件について馨に相談している(ここからも、清義が馨のことを心から信用していたことがわかる)。
そして、「犯人は同じアパートに住んでいる人物」という結論に導いたのは馨であり、映画の中のように清義が自ら気づいたわけではなかった。

暴露のビラを藤方のロッカーに入れたのも、アイスピックを突き立てたのも、佐沼(映画では沼田)に盗聴を依頼したのも、この結論に導いたのも、すべて馨だった。
すべて馨がコントロールしていた。


美鈴の裏切り

「美鈴が馨を裏切った」という点では一致しているが、裏切り方が映画と原作では微妙に異なっている。

映画では、馨が自ら突き立てたナイフを、美鈴がグリグリと更に突き刺し致命傷になるよう手を加えている。

原作での馨のシナリオは「馨が自分にナイフを刺そうとするところを、美鈴が止める。そこに清義が現れ、揉み合う二人を目撃する。殺人未遂で起訴された美鈴が、法廷で"佐久間の冤罪"と"清義の傷害罪"を暴露する」というものだった。

どうしても清義の傷害罪を公にしたくなかった美鈴は、ナイフを止めるどころか覆いかぶさって馨に突き刺した。そして罪のすべてを一人で背負うことにした

大きく異なるわけではないが、原作の設定ほうがより狂気的で深い清義への愛が感じられると思う。(が、「ナイフを止めてくれることを信じて自分の胸に振り下ろす」という流れに不自然さを感じていたので、映画にするにあたってここを微修正したのは納得。)

そして、映画ではこの事実が明らかになる接見室のシーンでの美鈴の振る舞いによって十分にその狂気が表されていて、演出が素晴らしいと思ったところのひとつとなった。


原作→映画化についてのまとめ

この原作を映画にするには、それぞれの過去や考え、登場人物同士の関わり、関係性を、法律用語や裁判の流れとともに理解させなければならず、本当に難しい作業だったと思う。

小説なら分からなくなったら戻ればいいけれど、映画では展開についていかないといけない。
「あれ?今のどういう意味?」という引っ掛かりが増えれば増えるほど混乱してしまう。

こういった難しさを、原作の大切な主軸は何なのかを明確にした上で思い切って削ぎ落としていくことで非常にうまくまとめていると感じた。

素人が何言ってんだって感じだけど、私なら権田の話をナシにするという判断は到底無理だと思う。

そしてこれは後編で触れるつもりだけれど、演出や音楽の効果もとても良かった!
この飽きさせないスピード感の97分なら、特に映画好きでない層であっても置いてけぼりにならずに観終わることができると感じた。

どうか、なんだアイドルの映画か、と思わず劇場で観てくれる人が増えますように。

前編はここまで。
後編では、演出や演技について感想を書いていくつもりです。
次回は「中編」となりました!
主に演出と宣伝(予告・ポスタービジュアル)について書いています。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?