見出し画像

小さな親切が出来なかったとき

「〇〇駅へはどうやっていくのかしら?」

ベビーカーに息子を乗せて久しぶりに遠出した買い物の帰り道、駅のホームで、エレベーターを待っていると、ふいにそう話しかけられた。

声の主は、80代くらいのご婦人だった。
お年寄りだけれど、お婆さんと言うのははばかられるほど、姿勢もよく、身なりも綺麗な女性だった。

しかし、妙だ。〇〇駅はこの路線ではない。
「ここはJRですよ。〇〇駅は地下鉄の方に乗らないと行けないですよ。」
心配しながら私がそう答えると、
「あらそう...。迷っちゃったみたい。じゃあ京都駅には行ける?」
と聞き直された。よかった、京都駅なら一本で行ける。
「京都駅だったら、この路線にもうすぐ来る電車で行けますよ。」
「あらそう。ありがとう。」
会話が終わると、エレベーターが来た。乗っていた人が次々と降りていくのを、ベビーカーの中の息子が目を丸くして見ている。

すると、さっきのご婦人が、駅で工事をしている人に話しかけているのが聞こえてきた。

「〇〇駅へはどうやって行くの?」

ん?私に聞いたことをまた聞いているようだ。

工事のおじさんは、私と同じ反応で不思議そうに私と同じことをご婦人に説明していた。
するとご婦人はまた、
「京都駅へは行けますか?」と聞く。
また同じ質問だ。おじさんは安堵した様子で、京都駅ならこの電車で行けると説明していた。

何だか変だ。私と全く同じ会話をしている。訝しみながら考えていると、もしかして、認知症だろか、という疑念が浮かんだ。それなら本当に迷子かもしれない。

ひとたびそう思うと心の中で不安が渦巻く。1階にいる駅員さんに言おうか。言ったら警察が来るのだろうか、そんなことを考えていると、エレベーターが空になり、扉が閉じようとしている。息子はベビーカーが止まっているのが嫌なようで、足をジタバタ揺らしている。夕方の駅のホームは秋の冷たい風が吹いていた。長居して息子に風邪を引かせたくないなあと思った。それに、暇を持て余した息子がベビーカーの中でいつ暴れ出すか分からない。自分の心配事に意識を取られて、そもそも、私の考え過ぎかもしれないと思うようになる。だんだんと行動することが億劫になって、咄嗟にエレベーターに乗った。そのまま私は家路に着いた。

家に着き、夕飯の仕度を始めてもなお、ご婦人への一抹の不安が心に残った。思い過ごしかもしれないけど、やっぱり何かもう一歩、手助けすればよかったと後悔が残る。

夜息子を寝かしつけ、仕事から帰ってきた夫と二人になったとき、今日の出来事を話した。話したところで解決できるものでもないが、話さずにはいられないほど、やはり気がかりだった。

夫は私の話を聞いて、「そっか。今度はちゃんと駅員さんに声をかけよう。」と優しく諭してくれ、私は反省と共に、その優しさに救われた。

すると、眠そうに寝転んでいた夫がこんな話を始めた。

「実は、俺も今日スーパーで買い物してたら、人参が棚から落ちてて。いつもはそういうのが落ちてたら、拾うようにしてるんだ。でも今日は何故か拾わなかったんだよね。何だか、拾う気持ちが起きなくてさ。それがちょっと心に残ってる。疲れてるのかなあ。」

「そうか、疲れてるのかもね。そういえば、私も今日は久しぶりにベビーカーで遠出した帰りで、疲れてたのもあるなあ。」

画像1

(ベビーカーの中でねんねの息子)


忙しく仕事をしていた頃、人生の変化の時期がやってきて、子どもを授かり、仕事をセーブする流れになった。忙しくしていた頃に比べて、心にゆとりが生まれた。

心にゆとりが生まれると、自分にも様々な変化が起きる。そのうちのひとつは、親切になることだ。

もちろん、今までも親切しないことはないけれど、少々面倒くさい親切も進んで出来るようになる。お店で他人が棚にぶつかって商品が落ちて、そのまま行ってしまっても、何も思わず私が拾って元に戻す。心にゆとりがないと、拾わなかった他人に腹が立ったり、自分が拾わなくても店員が拾うだろうと思ってそのままにしてしまうときもある。

心にゆとりが出来て、少々手間のかかる親切もするようになったとき、親切することの気持ちよさを改めて知った。情けは人の為ならずと言うが、それは本当だ。誰も見ていなくても、落ちている商品を拾うと、お店が助かるという効用もあるが、まず自分が清々しい気持ちになる。自分がちょっとしたいい気分になれるのだ。

一方で、今までの忙しかった自分はこんな少しの親切さえ惜しむほど、ゆとりがなかったのかと気付かされた。もっと言えば、忙しいからと言って、こんな少しの手間を惜しんでもいいと思っていた自分の傲慢さを恥ずかしく思った。

今回も同じだ。今までは仕事で忙しかったせいにしていたが、育児が始まった今もまた同じことが起きているのだ。育児で心にゆとりがなく、ちょっとした親切を出し惜しみした。それは本当に育児のせいだろうか。心のゆとりは果たして、そんなにも簡単に仕事や育児のせいで、消えてしまうのだろうか。

いや、そもそも私は心にゆとりをもつという自分の役割を怠っていたのだ。仕事や育児といったやるべきことと同じように、自分の心にゆとりを持つことも優先して取り組む必要がある。

親切は心のゆとりのバロメーターなのだ。


しかし、夫がお店で商品が落ちていたら拾うことにしていると心がけていると知って、何だか嬉しかった。

あるドラマで、挨拶がきちんと出来る若い女の子を見た作家が、当たり前のことを当たり前に出来ることを褒めて、その大切を説くシーンがあった。まさにその通りだと思う。

少しの親切を当たり前に気持ちよく出来るような気持ちのゆとりを、私も当たり前にいつも持っていたいものだ。


***

about 鈴木あおい

生きること全般について書いてます。 あるときから、人の資質を色で感じられるようになり、色読みをはじめました。noteでは、生きていく上で大切な気付きをエッセイを通じてお話します。メインブログにて、感性豊かな優しい女性が心を開いて生きていくための記事を執筆。息子と夫とわらびもちが好きなアラサーHSPです。 

【ブログ】こころを開いて生きる。HSP鈴木あおいの色読み

【自己紹介】人に色が見えるようになるまで

【Twitter】鈴木あおい